2016年4月30日土曜日

30 日本初の修道院「天使園」♪

1898年4月30日、函館にトラピスチヌ修道院が創立された♪


天使の聖母トラピスチヌ修道院


トラピスチヌ修道院は、フランスから派遣された8名の修道女によって創立された、北海道函館市にある女子修道院「天使の聖母トラピスチヌ修道院」の通称で、「天使園」とも呼ばれている♪



大天使ミカエルの像



日本最初の女子修道院で、男子禁制である。ノルマンディー地方にある「トラップ修道院」の厳しい規律に従う厳律シトー修道会派で、トラピスト(女子はトラピスチヌ)と呼ばれている。三木露風がここを訪ねて「野薔薇」を書き、山田耕筰作曲の日本歌曲として親しまれている♪




野薔薇 (1917) 」   詩: 三木露風
のばら
のばら
蝦夷地(えぞち)ののばら
人こそ知らね
あふれさく
いろもうるはし
野のうばら

のばら
のばら
かしこき野ばら
神の聖旨(みむね)を
あやまたぬ
曠野(あらの)の花に
知る教(おしえ)

ハマナス/野薔薇

ちなみに、詩に詠われている「野薔薇」は北海道の道花として有名なハマナスのことで、日本固有の野生の薔薇の一種、浜辺の砂地などに群生し、夏に濃いピンク色の大きな花を咲かせる♪







The Trappist Convent monastery was established by 8 nuns from France in 30 April 1898.
Rofu Miki is visiting here, is writing "wild rose" and is enjoying as a Japanese song of Kosaku Yamada composition.

The Trappist Convent monastery is a common name in a nunnery of the Trappists meeting (Kazari law SHITO meeting) system in the Hakodate-shi, Hokkaido suburb "angel's Holy Mother Trappist Convent monastery".  A contemplation nunnery at the beginning of Japan. A male prohibition. Sold cake and cookie are famous as a gift.

2016年4月29日金曜日

29 クックオーストラリア上陸♪

1770年4月29日、クック船長、オーストラリアに初上陸♪


ジェームズ・クックは、10代を石炭運搬の船員として過ごし、1755年に英国海軍に志願、頭角を現し、1757年に航海長に昇進、セントローレンス川の河口域の海図を作成した。海図はケベック奇襲上陸作戦を成功に導き、英国王立協会に注目される♪  




国家より、南方探索の命を受けて英国軍艦エンデバー号を指揮し出帆、多くの島や海岸線を発見した♪ 卓越した航海術、優れた地図作成技術、真実のためには危険な地域も探検する勇気(南極圏への突入、グレートバリアリーフ周辺の探検など)、逆境での統率力、海軍省の指令の枠に納まらない壮大なアドベンチャーとして名を馳せた。欧州人として初めて太平洋を航海しオーストラリアに到達、ハワイ諸島も発見した。それらを綴った自筆の緻密な航海日誌を残し、ニューファンドランド島とニュージーランドの海図を作製。また、史上初めて壊血病の死者を出さずに世界周航を成し遂げた♪








The land adjacent to Botany Bay was settled for many thousands of years by the Tharawal and Eora Aboriginal peoples and their associated clans. On 29 April 1770, Botany Bay was the site of James Cook's first landing of HMS Endeavour on the continent of Australia, after his extensive navigation of New Zealand. He wrote extensively in his journal about these people, calling them as "Savages of the East." Later the British planned Botany Bay as the site for a penal colony. Out of these plans came the first European habitation of Australia at Sydney Cove. Alhough the penal settlement was almost immediately shifted to Sydney Cove, for some time in Britain transportation to "Botany Bay" was a metonym for transportation to any of the Australian penal settlements.

2016年4月28日木曜日

28 一人を救う者は世界を救う

1908年4月28日は、第二次世界大戦中、ドイツの強制収容所のユダヤ人1,200人の命を救ったシンドラーの生まれた日♪






オスカー・
シンドラーは、ギムナジウム在学中に成績証明書を改ざんして退学処分となっている(笑 後に復学を許されるが、クラスメイトから「詐欺師シンドラー」と渾名されたという(笑



シンドラーのナチス党政権への抵抗は、思想的な理由からでは無かった。人道的な工場主は、ユダヤ人たちに対する無慈悲な扱いに違和感を抱いた。彼は出来るだけ多くのユダヤ人を救済したいという願望の前に全財産を投げ出した♪



シンドラーのユダヤ人救済においての強みは、彼の工場が軍需工場だったこと。 生産ラインに労働力が不可欠だと主張することで、絶滅収容所へ移送される際に救命を働きかけることができた♪



その際には子供や大学生を熟練の金属工として登録した。シンドラーのこの有名な「リスト」は、秘書ミミ・ラインハルトに口述筆記させ、彼女もまた2,3人それに書き足した♪



1944年末、20,000人以上のユダヤ人が絶滅収容所に移送された。シンドラーは、ドイツ軍の司令官から、彼の「軍需産業」の労働者を連れていく許可を得た。その労働力は800人になった。



人々の移送列車はアウシュヴィッツを通った。その時、すべての囚人はそこの検疫所に行くようにという親衛隊の指令書が届いた。シンドラーは駆けつけ、救命のために1人当たりゲシュタポに7マルク支払った。これはアウシュヴィッツ運営上、最も多くの集団が出て行くことを許された例外的なケースだった♪



シンドラー夫妻はアウシュヴィッツからさらに120人のユダヤ人を救出した。1945年1月、この人々は家畜用貨物車で荷送された。親衛隊は、凍てつく寒さの中食事も水も与えず、7日間かけて工場の門まで運んだ。妻のエミーリエは貨物車だけを工場に入れ、親衛隊を入れなかった。シンドラーは、労働者が工場にとって急ぎ必要なのだと説いた。貨物車のドアを開けると13人の凍死者が発見され、生き延びた107人はようやく一命を取り留めた。



その後、シンドラーはドイツに帰国したが、1ペニヒすら持っていなかった。1945年、シンドラーに命を救われたユダヤ人たちが唯一持っていた金歯でつくった指輪を贈った。「一人の人間を救う者は世界を救う」 - タルムードの言葉が指輪に刻まれていた♪



レーゲンスブルクのシンドラーが居住した建物の壁にある記念プレート



時とともにシンドラーの事績は忘れ去られたが作家キニーリーが著した「シンドラーの箱船」(原題 Schindler's Ark
 )がベストセラーとなり、スピルバーグ監督が映画化、世界的な感動を呼んだ♪








Oskar Schindler (28 April 1908 – 9 October 1974) was a German industrialist, spy, and member of the Nazi Party who is credited with saving the lives of 1,200 Jews during the Holocaust by employing them in his enamelware and ammunitions factories, which were located in occupied Poland and the Protectorate of Bohemia and Moravia. He is the subject of the 1982 novel Schindler's Ark, and the subsequent 1993 film Schindler's List, which reflected his life as an opportunist initially motivated by profit who came to show extraordinary initiative, tenacity and dedication to save the lives of his Jewish employees.

2016年4月27日水曜日

27 適者生存は明治の哲学?

1820年4月27日に、哲学者ハーバート・スペンサー誕生♪






ハーバート・スペンサーは、イングランドの無神論の家庭に生まれる。教師であった父の方針で学校教育を受けず、父と叔父を教師として育った。



16歳で鉄道技師として働きつつ、空いた時間に著作活動を行ない、若干23歳で「エコノミスト」誌の副編集長となる。著作が広く読まれるにつれ名声を得、駐英公使だった森有礼に大きな影響を与えた。「発達仮説」、「心理学原理」を出版、「綜合哲学体系」は、35年かけて完成させている。



スペンサーは社会を「システム」として把握し、維持、分配、規制などの「構造と機能」を分析した。ポピュラーな用語「進化 (evolution) 」と「適者生存 (survival of the fittest) 」という言葉は、ダーウィンではなく、哲学者スペンサーの造語である。





明治期の日本では、スペンサーの著作が数多く翻訳された。しかしスペンサーからみると、封建制を脱したばかりの日本の近代化は背伸びのしすぎだと考え、1883年に板垣退助と会見した際には、板垣の発言を空論ととらえ、けんか別れしたという(笑












Herbert Spencer (27 April 1820 – 8 December 1903) was an English philosopher, biologist, anthropologist, sociologist, and prominent classical liberal political theorist of the Victorian era.

Spencer developed an all-embracing conception of evolution as the progressive development of the physical world, biological organisms, the human mind, and human culture and societies. He was "an enthusiastic exponent of evolution" and even "wrote about evolution before Darwin did." As a polymath, he contributed to a wide range of subjects, including ethics, religion, anthropology, economics, political theory, philosophy, literature, astronomy, biology, sociology, and psychology. During his lifetime he achieved tremendous authority, mainly in English-speaking academia. "The only other English philosopher to have achieved anything like such widespread popularity was Bertrand Russell, and that was in the 20th century." Spencer was "the single most famous European intellectual in the closing decades of the nineteenth century" but his influence declined sharply after 1900: "Who now reads Spencer?" asked Talcott Parsons in 1937.

Spencer is best known for the expression "survival of the fittest", which he coined in Principles of Biology (1864), after reading Charles Darwin's On the Origin of Species. This term strongly suggests natural selection, yet as Spencer extended evolution into realms of sociology and ethics, he also made use of Lamarckism.

2016年4月26日火曜日

26 シェイクスピアの洗礼日♪

1564年4月26日は、イギリスの劇作家シェイクスピアの洗礼日♪






ウィリアム・シェイクスピアは、イングランド王国のストラトフォード・アポン・エイヴォンに生まれた。父ジョン・シェイクスピアは成功した皮手袋商人で、町長も勤めた名士だった。母メアリー・アーデンも裕福な家庭環境で育ち、2人は1557年に結婚した。



シェイクスピアの誕生日は不明だが、1564年4月26日に洗礼を受けた記録がある♪ 当時、洗礼式を3日以内に行なう通例があったため、従来は、誕生日は4月23日とされてきたが歴史的な裏付けは存在しない。この説は、シェイクスピアが1616年の4月23日(グレゴリオ暦では5月3日)に没しているため、誕生日も4月23日だったという推定が支持されてきたらしい(笑



現存するシェイクスピアの生家

1585年前後にロンドンに進出し、1592年には劇作家として活躍、1612年に引退するまでの約20年間に、四大悲劇「ハムレット」、「マクベス」、「オセロ」、「リア王」をはじめ、「ロミオとジュリエット」、「ヴェニスの商人」、「夏の夜の夢」、「ジュリアス・シーザー」など多くの傑作を残している♪



シェイクスピアの諸演劇/1849年 ジョンギルバート画


シェイクスピアは、非凡な人間観察による心理描写から、最も優れた英文学の作家と言われている♪ また彼の膨大な著作は、初期近代英語の実態を知る上での貴重な資料となっている♪











William Shakespeare ( 26 April 1564 (baptised) – 23 April 1616) was an English poet, playwright, and actor, widely regarded as the greatest writer in the English language and the world's pre-eminent dramatist. He is often called England's national poet, and the "Bard of Avon".


Shakespeare was born and brought up in Stratford-upon-Avon, Warwickshire. At the age of 18, he married Anne Hathaway, with whom he had three children: Susanna, and twins Hamnet and Judith. Sometime between 1585 and 1592, he began a successful career in London as an actor, writer, and part-owner of a playing company called the Lord Chamberlain's Men, later known as the King's Men. He appears to have retired to Stratford around 1613, at age 49, where he died three years later. Few records of Shakespeare's private life survive, which has stimulated considerable speculation about such matters as his physical appearance, sexuality, and religious beliefs, and whether the works attributed to him were written by others.


Shakespeare produced most of his known work between 1589 and 1613. His early plays were primarily comedies and histories, and these are regarded as some of the best work ever produced in these genres. He then wrote mainly tragedies until about 1608, including Hamlet, Othello, King Lear, and Macbeth, considered some of the finest works in the English language. In his last phase, he wrote tragicomedies, also known as romances, and collaborated with other playwrights.

2016年4月25日月曜日

25 ラ・マルセイエーズ絶唱♪

1792年4月25日に、オーストリアへ宣戦布告したという知らせがストラスブールに届き、大尉ルージェ・ド・リールが出征する部隊を鼓舞するために一夜にして「ラ・マルセイエーズ」を作詞作曲した♪




ラ・マルセイエーズを初披露するルージェ・ド・リール大尉


その後、マルセイユ連盟兵がパリ入城したときに口ずさんでいたことをきっかけとしてパリで流行し、「ラ・マルセイエーズ」という呼称が定着。1795年には、国民公会でフランス国歌として採用される♪




ラ・マルセイエーズ」楽譜


1804年、ナポレオンが皇帝になると、「暴君を倒せ」の歌詞のせいで、国歌は「門出の歌」に変更され、「ラ・マルセイエーズ」は、公の場で歌うことが禁止された(笑



1830年の7月革命以降、再び国歌に制定され、第四共和政の「1946年憲法」、第五共和政の「1958年憲法」も、「ラ・マルセイエーズ」を国歌として定める旨が明記されている♪



1992年のアルベールビルオリンピック開会式で、少女が一羽の鳩を空中に放ち「ラ・マルセイエーズ」を歌う演出がなされた。しかし歌詞が「奴らは来る、 汝らの元に、汝らの子の喉を掻ききるため」など過激なため、変えようという議論がおこったが賛否が分かれ結局変更には至っていない♪



ラ・マルセイエーズを初披露するルージェ・ド・リール大尉












"La Marseillaise" is the national anthem of France. The song was written in 25 April 1792 by Claude Joseph Rouget de Lisle in Strasbourg after the declaration of war by France against Austria, and was originally titled "Chant de guerre pour l'Armée du Rhin" ("War Song for the Rhine Army").

2016年4月24日日曜日

24 産業革命に貢献した牧師♪

1743年4月24日 、産業革命に貢献した牧師カートライト誕生♪




エドモンド・カートライトはイギリスのノッティンガムシャーの旧家に生まれ、オックスフォード大学を卒業。以後40代頃までイングランド国教会の牧師を生業とする。1779年にゴードビーマーウッドの教区牧師となり、1783年にはリンカン大聖堂の聖職者となった。


カートライトのロープ製造機/1792年



カートライトは1784年に力織機を設計しはじめ、1785年に力織機の基本特許を取得した。1789年には梳毛機、1792年にロープ製造機、1797年にアルコール機関(水の代わりにアルコールを使用した蒸気機関)を発明した♪


ドビー織り機構のある1890年代の織機/Textile Mercury に掲載されたイラスト


当時の発明家は発明だけでは収入はなかったが、1809年に英国議会がカートライトの功績を称え1万ポンドを贈った♪










Edmund Cartwright MA FSA (24 April 1743 – 30 October 1823) was an English inventor. He graduated from Oxford University very early and went on to invent the power loom. Married to local Elizabeth McMac at 19, he was the brother of Major John Cartwright, a political reformer and radical, and George Cartwright, explorer of Labrador. He was the only son of the Reverend Edmund Cartwright DD FRS of Goadby Marwood, Leicestershire.[1]

Cartwright was taught at Queen Elizabeth Grammar School, Wakefield, and University College, Oxford, and became a clergyman of the Church of England. Cartwright began his career as a clergyman, becoming, in 1779, rector of Goadby Marwood, Leicestershire. In 1783, he was elected a prebendary in the Lincoln (Lincolnshire) cathedral.



2016年4月23日土曜日

23 ロマン派の画家ターナー♪

1775年4月23日は、ロマン派の画家ターナーの生まれた日♪




自画像



ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーは、ロンドンのコヴェント・ガーデンに理髪師の子として生まれる。母親は精神疾患をもち、息子の世話をすることができなかった。ターナーは学校教育もほとんど受けず少年時代を過ごした。



13歳の時、風景画家マートンに弟子入りし絵画を学んだ。その後、美術学校に入学。1797年にはロイヤル・アカデミーに初出品し、27歳でロイヤル・アカデミー正会員となる♪




ミノタウルス号の難破/ターナー画 1810年頃

トラファルガーの戦い/ターナー画 1822年頃



「吹雪ー港の沖合の蒸気船」では巨大な波、水しぶき、吹雪といった自然の巨大なエネルギーを描き出し、印象派を30年も先取りしたこの作品は、発表当時は酷評された。この作品を制作するために、自らマストに4時間も縛りつけられ、嵐を観察したという逸話が残っている(笑



吹雪ー港の沖合の蒸気船/ターナー画 1842年


また、冒頭の自画像はかなり美化されたものらしく、アカデミーの学友チャールズ・ターナー(同姓だが親戚ではない)が描いた肖像画↓ は、風貌が著しく異なっている(笑


ウィリアム・ターナー/チャールズ画


     





Joseph Mallord William Turner, RA (14 May 1775 – 19 December 1851) was an English Romanticist landscape painter. Turner was considered a controversial figure in his day, but is now regarded as the artist who elevated landscape painting to an eminence rivalling history painting.

Although renowned for his oil paintings, Turner is also one of the greatest masters of British watercolour landscape painting. He is commonly known as "the painter of light" and his work is regarded as a Romantic preface to Impressionism.



2016年4月22日金曜日

22 最高齢のノーベル受賞者♪

1909年4月22日は、神経学者モンタルチーニの生まれた日♪ 








リータ・レーヴィ=モンタルチーニは、イタリア・トリノのスペイン系ユダヤ人の家庭に生まれる。「職歴は妻や母となるのに邪魔だ!」と考える父親の反対を押し切り、トリノ大学に入学、組織学者レーヴィのもとで医学を学んだ♪


1986年に、同僚スタンリー・コーエンと共に、神経成長因子の発見でノーベル生理学・医学賞を受賞している♪







2012年に103歳で没した際は、ノーベル賞受賞者の中で最高齢だった。また最高齢だけでなく、たった5万人未満という少数イタリアのユダヤ人コミュニティから出た四人目のノーベル賞受賞者ということで、同民族は、ノーベル賞受賞者輩出率が驚異的な確率となっている♪ ちなみに、他の三人は同世代の、エミリオ・セグレ、サルヴァドール・ルリア、フランコ・モディリアーニである♪












Rita Levi-Montalcini, OMRI, OMCA (22 April 1909 – 30 December 2012) was an Italian Nobel Laureate honored for her work in neurobiology. She was awarded the 1986 Nobel Prize in Physiology or Medicine jointly with colleague Stanley Cohen for the discovery of nerve growth factor (NGF).From 2001 until her death, she also served in the Italian Senate as a Senator for Life.

Rita Levi-Montalcini had been the oldest living Nobel laureate and was the first ever to reach a 100th birthday.On 22 April 2009, she was feted with a 100th birthday party at Rome's city hall.

2016年4月21日木曜日

21 キンダーガーデンを創始♪

 1782年4月21日は、幼児教育の祖フレーベルの生まれた日♪








フリードリヒ・ヴィルヘルム・アウグスト・フレーベルは、ドイツのテューリンゲン州に牧師の息子として生まれた。5人兄姉の末子だったが、生後9ヵ月で母を亡くす。



4歳になった時に継母を持つが、継母に実子が生まれ疎まれるようになる。10歳の時実母の兄が訪問、実情を察知しフレーベルを引き取ってくれる。伯父も牧師でフローベルを暖かく受容し、学校でも多くの学友に恵まれる。14歳からは林務官ヴィッツの元で働きながら学ぶ。




フレーベルの生家


フレーベルは子供の本質を神的なものとして捉え、園丁が植物の種類に従って、水や肥料をやり剪定するように、教育者も子供の本質に伴ってサポートするべきだと考え、そこからKindergarten―幼稚園(子供達の園
)という名称を生みだした♪




幼稚園(Kindergarten)という言葉は、彼の造語で、その功績に感謝して、世界の多くの国々が幼児教育のための学校をKindergarden と呼んでいる♪ 日本語の「幼稚園」もこの単語を翻訳したものである♪




なお、アンパンマンなどの絵本で有名な出版社、フレーベル館は、彼に由来している♪




現在のフレーベルスクール/ドイツ












Friedrich Wilhelm August Fröbel or Froebel (21 April 1782 – 21 June 1852) was a German pedagogue, a student of Pestalozzi who laid the foundation for modern education based on the recognition that children have unique needs and capabilities. He created the concept of the "kindergarten" and also coined the word now used in German and English. He also developed the educational toys known as Froebel Gifts.

2016年4月20日水曜日

20 漱石「こころ」連載開始♪

1914年4月20日、夏目漱石の「こゝろ」朝日新聞に連載開始♪



漱石自ら装丁


小説「こゝろ」は、同年9月に岩波書店から漱石自身の装丁で刊行された。この作品が岩波書店の出版社として最初の出版物となる♪




内容は漱石が乃木希典の殉死に影響を受けて、執筆したといわれている。人間の深層のエゴと、倫理観の葛藤が描かれた。殉死を「明治の終わり」に象徴し、大正という新しい時代への変化が綴られている。







小説「こゝろ」は、連載開始から100年後の2014年4月20日に、「朝日新聞」で再度連載されている♪ この本は日本一の売り上げで、2014年時点で705万500部を記録している♪








Kokoro is a novel by the Japanese author Natsume Sōseki. It was first published in 20 April 1914 in serial form in the Japanese newspaper Asahi Shinbun. While the title literally means "heart", the word contains shades of meaning, and can be translated as "the heart of things" or "feeling". The work deals with the transition from the Japanese Meiji society to the modern era, by exploring the friendship between a young man and an older man he calls "Sensei" (or teacher). It continues the theme of isolation developed in Sōseki's immediately preceding works, here in the context of interwoven strands of egoism and guilt, as opposed to shame. Other important themes in the novel include the changing times (particularly the modernization of Japan in the Meiji era), the changing roles and ideals of women, and intergenerational change in values, the role of family, the importance of the self versus the group, the cost of weakness, and identity.


2016年4月19日火曜日

19 応用エネルギーのミーゼス♪

1883年4月19日は、科学者ミーゼスの生まれた日♪





リヒャルト・フォン・ミーゼスは、ウィーン工科大学で学び、1907年に博士号を得、1919年にベルリン大学に採用され、応用数学の雑誌を創刊した♪ 著名な業績としてはひずみエネルギー説がある。塑性設計に用いられるミーゼス応力、ミーゼスの降伏条件式は、この理論に基づいている。




1933年にナチスが政権を獲得すると、ミーゼス自身はカトリック教徒だったが先祖にユダヤ人が居たため、「非アーリア人」に分類されてしまった。そのため、1939年にアメリカ合衆国に亡命してハーバード大学の教授に就任した。


フォン・ミーゼス家の家紋


1943年に、ベルリン脱出から逃避行をともにしてきた数学者のヒルダ・ガイリンガーと結婚。生涯を通して、流体力学、空気力学、航空工学、静力学および確率論に業績を残した♪












Richard Edler von Mises (19 April 1883 – 14 July 1953) was a scientist and mathematician who worked on solid mechanics, fluid mechanics, aerodynamics, aeronautics, statistics and probability theory. He held the position of Gordon-McKay Professor of Aerodynamics and Applied Mathematics at Harvard University. He described his work in his own words shortly before his death as being on

"... practical analysis, integral and differential equations, mechanics, hydrodynamics and aerodynamics, constructive geometry, probability calculus, statistics and philosophy."
Although best known for his mathematical work, Mises also contributed to the philosophy of science as a neo-positivist, following the line of Ernst Mach. Historians of the Vienna Circle of logical empiricism recognize a "first phase" from 1907 through 1914 with Philipp Frank, Hans Hahn, and Otto Neurath.[citation needed] His older brother, Ludwig von Mises, held an opposite point of view with respect to positivism and epistemology.

During his time in Istanbul, Mises maintained close contact with Philipp Frank, a logical positivist and Professor of Physics in Prague until 1938. His literary interests included the Austrian novelist Robert Musil and the poet Rainer Maria Rilke, on whom he became a recognized expert.

2016年4月18日月曜日

18 ストコフスキー・シフト♪

1882年4月18日に、オーケストラ普及に貢献した指揮者ストコフスキー生まれる♪






レオポルド・アントニ・スタニスラフ・ボレスラヴォヴィチ・ストコフスキーは、ロンドンでポーランド移民の父、アイルランド移民の母の間に生まれた♪



教会のオルガニストとしてキャリアをスタート、1909年には指揮者としてデビュー、1912年からフィラデルフィア管弦楽団の指揮者に就任し、ここを世界一流の楽団に育てた♪



その後、ニューヨークシティ管弦楽団やアメリカ交響楽団 を創設、NBC交響楽団、ヒューストン交響楽団の指揮者を歴任する♪ 1965年には日本フィルハーモニー交響楽団を指揮するために来日を果たした♪



マーラー 交響曲第8番のアメリカ初演(1916年)


またミュージカル映画「オーケストラの少女」や、ディズニーのアニメーション映画「ファンタジア」に出演、「ファンタジア」により第14回アカデミー賞特別賞を授ける♪



ストコフスキーはオーケストラを操る達人であり、指揮棒を使わずに指揮を行い、「1本の棒より、10本の指の方が遥かに優れた音色を引き出せる」と語った♪



また、それまでの第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンを左右両翼に分ける配置を、まとめる形にした。この配置は「ストコフスキー・シフト」と呼ばれ、現在、世界のオーケストラの主流となっている♪










Leopold Anthony Stokowski (18 April 1882 – 13 September 1977) was a British conductor of Polish and Irish descent. One of the leading conductors of the early and mid-20th Century, he is best known for his long association with the Philadelphia Orchestra and for appearing in the film Fantasia. He was especially noted for his free-hand conducting style that spurned the traditional baton and for obtaining a characteristically sumptuous sound from the orchestras he directed.

In America, Stokowski performed with the Cincinnati Symphony Orchestra, the Philadelphia Orchestra, the NBC Symphony Orchestra, New York Philharmonic Symphony Orchestra, the Houston Symphony Orchestra, the Symphony of the Air and many others. He was also the founder of the All-American Youth Orchestra, the New York City Symphony, the Hollywood Bowl Symphony Orchestra and the American Symphony Orchestra.

2016年4月17日日曜日

17 米政府より偉大な男? ♪

1837年4月17日 は、米大財閥の創始者J.P.モルガンの生まれた日♪ 



戯画化された、小さな政府と巨人のモルガン(笑 1881年


当時、モルガンの世界経済への役割は米政府より大きいと評価されていて、戯画↑ は、小さなアンクル・サム(米政府)と同舟の大きなモルガンが描かれている。1881年。





ジョン・ピアポント・モルガンはコネチカット州ハートフォードで生まれた。父は銀行家、母は教会の牧師の娘だった。父は名家「トレデガー・モーガン」と姻戚関係。同家は海賊ヘンリー・モーガンで知られている。



モルガンは大学を卒業後、ロンドンで父が起こしたJ・S・モルガン・アンド・カンパニーを受け継ぎ、その豊富な資金力で多くの鉄道を統合・経営し、USスチールも設立。19世紀末には世界最大の財閥の1つとなった♪



彼は巨大な芸術品コレクションをニューヨークのメトロポリタン美術館に遺贈した。また、モルガンの葬列がウォール街を通過する際には、
追悼の意から株式市場は2時間閉鎖されたという。









John Pierpont "J.P." Morgan (April 17, 1837 – March 31, 1913) was an American financier and banker who dominated corporate finance and industrial consolidation during his time. In 1892, Morgan arranged the merger of Edison General Electric and Thomson-Houston Electric Company to form General Electric. He was instrumental in the creation of the United States Steel Corporation.

At the height of Morgan's career during the early 1900s, he and his partners had financial investments in many large corporations and had significant influence over the nation's high finance and United States Congress members. He directed the banking coalition that stopped the Panic of 1907. He was the leading financier of the Progressive Era, and his dedication to efficiency and modernization helped transform American business.

2016年4月16日土曜日

16 パリを飾ったマンサール♪

1646年4月16日に、ルイ14世の建築を手がけたマンサール誕生♪


ジュール・アルドゥアン=マンサール

ジュール・アルドゥアン=マンサールは、大おじのフランソワ・マンサールに師事したのちサン=ジェルマン=アン=レー城の拡張を皮切りにルイ14世の愛人のモンテスパン公爵夫人の城を設計したことで王の評価を勝ち取った。



1681年に主席建築家に、1699年に王家の建物の総監に任ぜられた。マンサールの洗練されたスタイルは後期バロックを方向付け、その影響は遠くサンクトペテルブルクやイスタンブールにまで及んでいる♪



オテル・デ・ザンヴァリッド、サン・ルイ教会/パリ


ヴァンドーム広場/パリ

鏡の間/ヴェルサイユ宮殿



人生の晩年、1690年代に彼が装飾したヴェルサイユ宮殿や、トリアノン宮殿の部屋部屋は、壮麗なバロックから華麗なロココ様式へと明るく優美な装飾へ変化していった♪




マンサールの仕事群♪

パリのサン・ロッシュ教会/パリ天文台/パリのヴァンドーム広場/パリのロワイヤル橋/オテル・デ・ザンヴァリッド、サン・ルイ教会/ヴェルサイユ宮殿の庭園に面したファサード、南北の翼、鏡の間、王室礼拝堂、大小の厩舎、新オレンジ温室、大トリアノン宮殿/ノートルダム教会/サン=ジェルマン=アン=レー城/マルリー城/シャンボール城のチャペル/アルルの市役所















Jules Hardouin-Mansart (16 April 1646 – 11 May 1708) was a French architect whose work is generally considered to be the apex of French Baroque architecture, representing the power and grandeur of Louis XIV. Hardouin-Mansart was one of the most important European architects of the seventeenth century.

Born Jules Hardouin in Paris, he studied under his renowned great-uncle François Mansart, one of the originators of the classical tradition in French architecture; Hardouin inherited Mansart's collection of plans and drawings and adopted his well-regarded name. He also learned from Libéral Bruant, architect of the royal veteran's hospital in Paris known as Les Invalides. Hardouin-Mansart served as Louis XIV's chief architect, first enlarging the royal château of Saint-Germain-en-Laye, then at Versailles from 1675. He became the surintendant des Bâtiments du Roi (Superintendent of royal buildings). He designed all the extensions and rebuildings at Versailles for the King, including the north and south wings, the Royal Chapel (with Robert de Cotte, 1710), and the celebrated Hall of Mirrors decorated by Charles Le Brun, his collaborator. Outside the château proper, he built the Grand Trianon and the Orangerie, as well as subsidiary royal dwellings not far away, such as the Château de Marly (begun in 1679).

Among his other best-known works, in Paris, are the Pont-Royal, the Église Saint-Roch, the Invalides great domed royal chapel Église du Dôme des Invalides dedicated to Saint Louis (designed in 1680), the Place des Victoires (1684–86) followed by the Place Vendôme (1690). Most of these works still set their stamp on the character of Paris and can be seen by a modern-day tourist.