2016年1月31日日曜日

31 友に恵まれたシューベルト♪

1797年1月31日に、オーストリアの作曲家「歌曲の王」と呼ばれるシューベルト生まれる♪





フランツ・ペーター・シューベルトはウィーン郊外で生まれた。父テオドールはアマチュア音楽家で息子たちに演奏を教えた。シューベルトは7歳頃から神童ぶりを発揮しはじめ、教会の聖歌隊はその才能に一目おき、教会のピアノ倉庫で自由に練習させてくれた。ここで貧しい家庭では手の届かない上質な楽器で練習することができた♪



1808年10月、シューベルトは寄宿制神学校の奨学金を得た。アントニオ・サリエリの指導の下、ウィーン少年合唱団の前身校だった。シューベルトはおよそ17歳の変声期までここに所属した♪ 休日ごとに自宅では、彼の作曲による演奏会が行われ、2人の兄がヴァイオリン、父がチェロ、彼はヴィオラを受け持った。多数の友人達が自分のこずかいで五線紙を買って与え、貧しいシューベルトを助けた。



その後、生活のために教師になるも、彼の才能を賞賛する友達のコミュニティ的な援助により、作曲に没頭する生活が送れるようになった。また定期的にシューベルトの音楽をみんなで楽しむ「シューベルティアーゼ」という音楽会が開かれ、多くの作品がここで発表されたんだ♪


一説にはシューベルトは非常に貧しかったとあるが、今日残されている肖像画の完成度からも、そこまで困窮した生活ではなかったと思われる。当時から「音楽の都」とされるウィーンでも、ベートーベンはドイツ、モーツアルトは遠いザルツブルグ出身で、ウィーン生まれのシューベルトはウィーン子の誇りだった♪ 友人達が集まって各自できることからサポートしていたコミュニティの結束は堅かったという♪





ウィーン中央墓地、ベートーベンとシューベルトの墓碑の前にモーツアルト記念碑





シューベルトはモーツアルトをこよなく愛したが、ベートーヴェンには畏怖にもにた深い崇拝を示していた。1827年に楽譜を見せ、「この音楽には神聖な火がある」と言われて感激している。1827年3月26日、ベートーヴェンが死去、シューベルトは葬儀に参列した後酒場に行き、「この中で最も早く死ぬ奴に乾杯!」と音頭をとった。友人たちは一様にぞっとしたと言う。彼の寿命は翌年尽きた。まだ31歳9ヶ月の若さだった。


シューベルトは遺言どおりヴェーリング墓地のベートーヴェンの墓の隣に埋葬された。両方とも1888年にウィーン中央墓地に移されたが、ヴェーリング墓地跡のシューベルト公園には当時の二人の墓石が残っている。













Franz Peter Schubert ( 31 January 1797 – 19 November 1828) was an Austrian composer. Schubert died before his 32nd birthday, but was extremely prolific during his lifetime. His output consists of over six hundred secular vocal works (mainly Lieder), seven complete symphonies, sacred music, operas, incidental music and a large body of chamber and piano music. Appreciation of his music while he was alive was limited to a relatively small circle of admirers in Vienna, but interest in his work increased significantly in the decades following his death. Felix Mendelssohn, Robert Schumann, Franz Liszt, Johannes Brahms and other 19th-century composers discovered and championed his works. Today, Schubert is ranked among the greatest composers of the late Classical and early Romantic eras and is one of the most frequently performed composers of the early nineteenth century.


2016年1月30日土曜日

30 ワルシャワ再現とベッロット♪

1720年1月30日は、風景画家ベッロットの生まれた日♪





はちみつ通り」の風景(ワルシャワ、1777年)ベッロット画

本名ベルナルド・ベッロット は、イタリアの風景画家14歳で伯父風景画家カナレットに弟子入りし、ベルナルド・カナレットと名乗っていた。宮廷画家だったポーランドではカナレットというと彼を指すんだ♪


当時の風景画家の手法、カメラオブスクラを使用していた。ベッロットは眺望を詳細に再現することに熱心だった。


カメラオブスクラによる投影画法/一点の壁の穴を通した光を平面で受ける


1747年から1758年に、彼はポーランド王アウグスト王の招きでドレスデンへ赴いた。彼がドレスデン中心部を描いた構図は「カナレット・ビュー」として有名で、ドレスデンを代表する景観のひとつとなっている。



ドレスデン、1750年-1752年ベッロット画 

「アウグスト橋下流のエルベ川右岸から見たドレスデン」1748年ベッロット画
「スタニスワフ2世の選出」1764年もちろん人物も描ける♪
聖アンナ教会(ワルシャワ、1774年)ベッロット画



一時、女帝マリア・テレジアの招きでウィーン、ミュンヘンなどに滞在するが、再び
アウグスト王に招聘され宮廷画家となった。残りの人生をワルシャワで送り、おびただしい数のワルシャワ王城を取り巻く眺めを描いた♪


その後、第二次世界大戦でワルシャワは悲惨な焼け野原となってしまったが、ベッロットの絵を参考に中世の町並みを再現しワルシャワ歴史地区」として見事に復興を果たした♪



現在のワルシャワ











Bernardo Bellotto, ( 30 January 1721– 17 November 1780) also called Canaletto, was an Italian urban landscape painter or vedutista, and printmaker in etching famous for his vedute of European cities (Dresden, Vienna, Turin and Warsaw). He was the pupil and nephew of Canaletto and sometimes used the latter's illustrious name, signing himself as Bernardo Canaletto. In Germany and Poland, Bellotto called himself by his uncle's name, Canaletto.

Bellotto's style was characterized by elaborate representation of architectural and natural vistas, and by the specific quality of each place's lighting. It is plausible that Bellotto, and other Venetian masters of vedute, may have used the camera obscura in order to achieve superior precision of urban views.

2016年1月29日金曜日

29 主役無し主題無しチェーホフ♪

1860年1月29日は、ロシアの劇作家チェーホフの生まれた日♪









アントン・パーヴロヴィチ・チェーホフは、雑貨店を営む父パーヴェル・エゴーロヴィチ・チェーホフの3男として生まれた。その後一家は破産、モスクワへ夜逃げしたが、優秀だったアントンだけが奨学金で学校を続けた。


1879年にモスクワ大学医学部に入学し、同時に複数のペンネームで雑誌にユーモア短編を寄稿するようになった。多忙を極めたが、彼が一家の生計をささえていた。1884年には医学部を卒業し、医師として診察も行うようになった。










1886年、老作家グリゴローヴィチから作品を評価されつつも、「ユーモア短編の量産は才能を浪費するよ」と助言された。これを機に文学的な作品に取り組み、「幸福」、「芦笛」、「曠野」、「ともしび」などの作品を生み出した。特に戯曲「かもめ」、「三人姉妹」、「ワーニャ伯父さん」、「桜の園」などは、世界的な評価を得た。



これらの作品は、主人公のいない群像の心理描写で、大げさなテーマも主題も無く、クライマックスも無い日常のスケッチ、という新たな舞台を生み出した。特にシェークスピアの時代から演劇が盛んだったロンドンで人気を博し、現在でもしばしば上演されている♪









Anton Pavlovich Chekhov ( 29 January 1860 – 15 July 1904)was a Russian physician, playwright and author who is considered to be among the greatest writers of short stories in history. His career as a playwright produced four classics and his best short stories are held in high esteem by writers and critics. Chekhov practiced as a medical doctor throughout most of his literary career: "Medicine is my lawful wife", he once said, "and literature is my mistress." Along with Henrik Ibsen and August Strindberg, Chekhov is often referred to as one of the three seminal figures in the birth of early modernism in the theater.

Chekhov had at first written stories only for financial gain, but as his artistic ambition grew, he made formal innovations which have influenced the evolution of the modern short story. He made no apologies for the difficulties this posed to readers, insisting that the role of an artist was to ask questions, not to answer them.

2016年1月28日木曜日

28 ルドルフ数は円周率♪

1540年1月28日は、正確な円周率を求めた数学者ルドルフ・ファン・コーレンが生まれた日♪






コーレンは、ドイツのヒルデスハイム出身でホーラント(現在のオランダ西部)に移住した数学者。移住後は、フェンシングと数学を教え、1594年にはフェンシングの養成学校を開校し、1600年にはライデン大学の数学教授となった。



高等教育は受けていなかったものの、50歳ごろから円周率に尋常ならざる興味を持ち始め、後半生を費やして、当時より1700年以上昔に考え出された「アルキメデスの手法」で、円周率の正式な値をひたすら計算した(笑



56歳で、著書「円について」を発表し、70歳で没するまでに

正262(=約461京1686兆)角形を使って円周率を35桁まで正しく計算した。ドイツでは彼にちなんで円周率は「ルドルフ数」とも呼ばれている♪



1610年の大晦日に死去しライデンに葬られた際には、故人の実績として彼の墓石に以下のように円周率の値が刻まれた♪


3.14159265358979323846264338327950288...,



この墓石は経年のなかで消失してしまったが、2000年になって同じように復元されている♪
















Ludolph van Ceulen (28 January 1540 – 31 December 1610) was a German-Dutch mathematician from Hildesheim. He emigrated to the Netherlands. Van Ceulen moved to Delft to teach fencing and mathematics. In 1594 he opened a fencing school in Leiden. In 1600 he was appointed the first professor of mathematics at Leiden University. He died in Leiden.

Ludolph van Ceulen spent a major part of his life calculating the numerical value of the mathematical constant π, using essentially the same methods as those employed by Archimedes some seventeen hundred years earlier. He published a 20-decimal value in his 1596 book Van den Circkel ("On the Circle"), later expanding this to 35 decimals. After his death, the "Ludolphine number",

3.14159265358979323846264338327950288...,
was engraved on his tombstone in Leiden. The tombstone was eventually lost, but later restored in 2000.

2016年1月27日水曜日

27 サヴァン?天才モーツアルト♪

1756年1月27日に、オーストリアの作曲家、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト誕生♪




義理の兄ヨーゼフ・ランゲ作 鍵盤に手を置くモーツァルト(顔以外未完成)
妻コンスタンツェが「最も似ている」と言った肖像画


モーツァルト一家の親しい友人であり宮廷ヴァイオリニストのシャハトナーは、6歳のヴォルフガングから「あなたのヴァイオリンは僕のよりも8分の1ピッチ高く調律されていますよ」と言われ、最初笑ったが、ヴォルフガングの異常な感覚能力を知っていた父が「この子の言う通りか確かめてみてくれ」と言うので確かめるとそのとおりだったという♪





1762年10月13日、 シェーンブルン宮殿でマリア・テレジアの御前で演奏した際に、6歳のモーツァルトは宮殿の床で滑って転んでしまい、その時手を取った7歳の皇女マリア・アントーニア(後のマリー・アントワネット)に「大きくなったら僕のお嫁さんにしてあげる。」と言ったという♪


翌年モーツアルト7歳の時、ゲーテが演奏を聴き、そのレベルは絵画でのラファエロ、文学のシェイクスピアに並ぶと後に回想している。






彼は頭の中で交響曲の第1楽章を作曲したあと、それを譜面に書き起こしながら同時に第2楽章を頭の中で作曲し、今度は第2楽章を書き起こしている間に、第3楽章を頭の中で作曲する、という手順を踏んでいたことが分かっている。



現在の精神医学界では、モーツアルトの並外れた才能とプライベートの稚拙な言動から、サヴァン症ではないか?という説もある








Wolfgang Amadeus Mozart ( 27 January 1756 – 5 December 1791), baptised as Johannes Chrysostomus Wolfgangus Theophilus Mozart, was a prolific and influential composer of the Classical era. Born in Salzburg, Mozart showed prodigious ability from his earliest childhood. Already competent on keyboard and violin, he composed from the age of five and performed before European royalty.


At 17, Mozart was engaged as a musician at the Salzburg court, but grew restless and traveled in search of a better position. While visiting Vienna in 1781, he was dismissed from his Salzburg position. He chose to stay in the capital, where he achieved fame but little financial security. During his final years in Vienna, he composed many of his best-known symphonies, concertos, and operas, and portions of the Requiem, which was largely unfinished at the time of his death. The circumstances of his early death have been much mythologized. He was survived by his wife Constanze and two sons.

He composed over 600 works, many acknowledged as pinnacles of symphonic, concertante, chamber, operatic, and choral music. He is among the most enduringly popular of classical composers, and his influence on subsequent Western art music is profound. Ludwig van Beethoven composed his own early works in the shadow of Mozart, and Joseph Haydn wrote that "posterity will not see such a talent again in 100 years".

2016年1月26日火曜日

26 「老兵死なず」マッカーサー♪

1880年1月26日に、アメリカの陸軍元帥、連合国軍最高司令官、マッカーサー生まれる♪



トレードマークのコーンパイプ


ダグラス・マッカーサーは、軍人である父の任地アーカンソー州で生まれた。幼少期は母メアリーによってフランスの風習に倣い女子の格好をさせられていた。このことを危惧した父によって陸軍士官学校に入学させられる。


1890年代


1899年にウェストポイント士官学校にトップ入学した。息子を溺愛する母メアリーは学校の近くのホテルに移り住んだ。


父親が高官で、母親が付き添っているマッカーサーは学校で念入りにしごかれた。そのしごきは、「ボクシング選手による鉄拳制裁」「割れたガラスの上に膝をついて前屈」「火傷する熱さの蒸し風呂」「ささくれだった板の上を全裸でスライディング」と凄まじかった。


しごきは士官学校の伝統だったが、新入生に死亡者が出てしまって軍法会議となった。最も激しいしごきを受けたマッカーサーが証人として呼ばれたが、しごきをした上級生の名を決して明かさず全校生徒から尊敬されたらしい。


在学中の正解率98.14%、主席で卒業した。1802年の学校創立以来、これを上回る成績はたった二名だけだった♪



コーンパイプはイメージ用で愛用は普通のパイプだったとか♪

朝鮮戦争の渦中に司令官を解任された際「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」と述べた。


息子のアーサーはジャズピアニストとなった。マッカーサーは、「私は母の期待が大変な負担だった。一番になるということは本当につらいことだ。私は息子にそんな思いはさせたくなかった」と語ったという。アーサーは父の死後は名前を変え、ヒッピーになったと言われている。










Douglas MacArthur (26 January 1880 – 5 April 1964) was an American five-star general and Field Marshal of the Philippine Army. He was Chief of Staff of the United States Army during the 1930s and played a prominent role in the Pacific theater during World War II. He received the Medal of Honor for his service in the Philippines Campaign, which made him and his father Arthur MacArthur, Jr., the first father and son to be awarded the medal. He was one of only five men ever to rise to the rank of General of the Army in the US Army, and the only man ever to become a field marshal in the Philippine Army.



2016年1月25日月曜日

25 バーンズ・ナイト「蛍の光」♪

1759年1月25日、スコットランドの詩人バーンズ生まれる




ロバート・バーンズは、スコットランド南西部の貧しい小作農家に7人兄弟の長男として生まれた。長老教会信徒で教育熱心な父親は息子たちに読み書きを学ばせた。ロバートは弟とともに農場で働きながら詩を作り始め、やがて「農民詩人」、「スコットランドの最愛の息子」と称される国民的詩人へと成長したんだ♪


保存されているバーンズの生家

バーンズが収集した数々のスコットランド民謡は、世界各地で親しまれた。日本でもAuld Lang Syneは「蛍の光」として、Comin Thro' The Ryeは「故郷の空」として歌い継がれている♪


スコットランドではバーンズの誕生日である1月25日をバーンズ・ナイトと呼び、バーンズ・サパーを開き、バーンズの生涯や作品である詩を記念し祝す日とされているんだ♪


バーンズ・サパーは、バグパイプの演奏に率いられて運ばれてきたスコットランドの伝統料理ハギスを前に、バーンズの「ハギスに捧げる詩」(Address to a Haggis)を暗唱し、ハギスにナイフを入れる儀式が行なわれるんだ(笑



ハギス(羊の内蔵にミンチ等を詰めた伝統料理)


2005年にシラク大統領が、プーチン大統領、シュレーダー首相との会談で、イギリス料理を指して「ひどい料理を食べるような連中は信用ならない」と発言したため、イギリスの大衆は猛反発した。しかし、イギリスのストロー外務大臣は、「ハギスに関してならシラク大統領のお説はごもっとも」と賛意を示した。ブッシュ大統領も、エディンバラG8に「ハギス料理が出されることを懸念している」とジョークのネタにした(笑



ちなみに、こういった内蔵系の民族料理は世界各地に存在し、特有のスパイス等から他の民族には苦手とされるケースは珍しくないんだヨ♪










Robert Burns (25 January 1759 – 21 July 1796), also known as Rabbie Burns, the Bard of Ayrshire and various other names and epithets,[nb 1] was a Scottish poet and lyricist. He is widely regarded as the national poet of Scotland and is celebrated worldwide. He is the best known of the poets who have written in the Scots language, although much of his writing is also in English and a light Scots dialect, accessible to an audience beyond Scotland. He also wrote in standard English, and in these writings his political or civil commentary is often at its bluntest.

2016年1月24日日曜日

24 ゴールドラッシュ始まる♪

1848年1月24日に、サッターズミルでジェームズ・マーシャルが「金」を発見、カリフォルニア・ゴールドラッシュが始まった♪




開拓者ジョン・サッターに雇われた現場監督マーシャルは、アメリカン川沿いに建設していた製材所の放水路で、輝く金属の欠片を見つけた。マーシャルとサッターは、その欠片を密かに分析。その結果、欠片は金であることが分かった。


噂はすぐに広がり、サンフランシスコの新聞社主サミュエル・ブラナンなどに至っては、大急ぎで探鉱用物資店を開店し、通りを闊歩して、「金だ!金だ!アメリカン川から金が出た!」と叫んだのだった。


サッターズミルの前に立つマーシャル


金発見の報道はたちまち広がり、アメリカ全土、ヨーロッパ、オーストラリア、アジア等から30万人もの人々が押し寄せた。金発掘はごく少数の者に莫大な富をもたらしたが、もちろんほとんどの人々は何も得られ無かった


それまでサンフランシスコは人口200人の小さな開拓地だったが、約四万人の新興都市に成長し、カリフォルニア中に道路、教会、学校が建設され、1850年にはアメリカ合衆国カリフォルニア州となるほど発展した。


以降カリフォルニアの名前はゴールドラッシュと結びつけられて、「カリフォルニア・ドリーム」と呼ばれ、新しいことの始まる場所、チャンスを秘めた場所の象徴となったんだ♪








The California Gold Rush (1848–1855) was a period in American history which began on January 24, 1848, when gold was found by James W. Marshall at Sutter's Mill in Coloma, California. The news of gold brought—mostly by sailing ships and covered wagons—some 300,000 gold-seekers (called "forty-niners", as in "1849") to California. While most of the newly arrived were Americans, the Gold Rush also attracted some tens of thousands from Latin America, Europe, Australia, and Asia.

2016年1月23日土曜日

23 マネ、近代絵画の幕開け♪

1832年1月23日 は、フランスの画家マネの生まれた日♪



カルロス・デュランによるマネの肖像画



エドゥアール・マネは、パリのセーヌ川左岸、謹厳なブルジョワ家庭に生まれた。父は法務省の高官でレジオンドヌール勲章も授与されており、母は外交官の娘という名家だった。


名門中学コレージュ・ロランに入学。この頃から、ルーブル美術館などで古典絵画に親しく接する。特に、17世紀スペイン絵画の真摯なリアリズムに影響を受けた。


両親の意向で受験した海軍兵学校を落第。半年後、再試験を受けるも失敗。根負けした(笑 両親はマネの希望を受け入れ、17歳の時に画家への道に進むことが許される♪



有名な「笛を吹く少年」


1866年にクロード・モネが出品した海景画がマネの作品と間違えられたのをきっかけに友人になった(笑 マネは7歳年下の画家の優れた水の描写力をいち早く評価し、モネを「水のラファエロ」と讃えたんだ♪


マネの画風は、ベラスケスを始めとする伝統的なスペイン絵画や、17世紀のフランドル・オランダ絵画等古典の影響を受けつつも、明るいメリハリのある色彩、立体感や遠近感をシンプル化した手法で、近代絵画の幕開けを担ったと評価されているんだ♪












Édouard Manet ( 23 January 1832 – 30 April 1883) was a French painter. He was one of the first 19th-century artists to paint modern life, and a pivotal figure in the transition from Realism to Impressionism.

His early masterworks, The Luncheon on the Grass (Le déjeuner sur l'herbe) and Olympia, both 1863, caused great controversy and served as rallying points for the young painters who would create Impressionism. Today, these are considered watershed paintings that mark the genesis of modern art.



2016年1月22日金曜日

22 エドワード7世やっと即位♪

1901年1月22日に、エドワード7世が59歳でイギリス国王に即位した♪





アルバート・エドワード(1841年11月9日 - 1910年5月6日)は、ヴィクトリア女王の長男として生まれ、翌月にプリンス・オブ・ウェールズ(皇太子)の称号を得る。ヴィクトリア女王の在位が長かったため、即位したときは59歳になっていた。


ちなみに、現在のチャールズ皇太子は、8歳9ヶ月で皇太子の称号を得たので、エリザベス女王の方がヴィクトリア女王より在位は長いが、「皇太子」の期間はエドワード王の方が長いことになる♪ 


ヴィクトリア女王とエドワード皇太子と親類家族、1896年


在位は10年足らずながら、外交問題を中心に活躍して有能な王であることを世界に知らしめた。「エドワード朝」の治世下、日英同盟、英仏協商、英露協商が締結されたため「ピースメーカー」と呼ばれたんだ♪



幼い頃のエドワード(フランツ・ヴィンターハルター画)

幼い頃はきかん坊だったらしい。3歳年下の弟が一緒に勉強するようになると、お手本になろうと勉学に励むようになった。語学に優れ、英語、ドイツ語、フランス語の3カ国語を完璧に話せたという



皇太子時代、インドを公式訪問し、ヒマラヤ山麓では虎狩りや象狩りを楽しんだ。帰途に付いた時には、お土産として虎、豹、象、チーター、ヒマラヤ熊、アラブ馬、ダチョウなど現地の動物を大量に積み込んだため、その船は「現代のノアの箱舟」と呼ばれたんだって♪













Edward VII (Albert Edward; 9 November 1841 – 6 May 1910) was King of the United Kingdom and the British Dominions and Emperor of India from 22 January 1901 until his death.

The eldest son of Queen Victoria and Prince Albert of Saxe-Coburg and Gotha, Edward was related to royalty throughout Europe. Before his accession to the throne, he served as heir apparent and held the title of Prince of Wales for longer than any of his predecessors. During the long reign of his mother, he was largely excluded from political power, and came to personify the fashionable, leisured elite. He travelled throughout Britain performing ceremonial public duties, and represented Britain on visits abroad. His tours of North America in 1860 and the Indian subcontinent in 1875 were popular successes, but despite public approval his reputation as a playboy prince soured his relationship with his mother.

2016年1月21日木曜日

21 セレブ御用達、バレンシアガ♪

1895年1月21日は、セレブ御用達のファッションデザイナー、バレンシアガの生まれた日♪








クリストバル・バレンシアガ・エイサギーレは、スペイン・バスク地方の漁村ゲタリアに生まれた。母親は裁縫師で、彼は12歳から見習いとなり、ティーンエイジャーで早くもトーレス伯爵夫人を顧客とした。非凡な才能を見抜いた伯爵夫人は、バレンシアガをマドリードに送り正式に洋裁師として修業させた。



1919年にブティックを開店、スペイン王室と王侯貴族を中心に、世界中のセレブがこぞって顧客となり、バレンシアガのブランドは高い名声を得た。ジョン・F・ケネディも妻のジャクリーンと連れだってバレンシアガの服を購入していた。




メゾン経営の傍らでファションデザインの授業を受け持ち、教え子にはオスカル・デ・ラ・レンタ、アンドレ・クレージュ、エマヌエル・ウンガロ、ミラ・ショーン、ユベール・ド・ジヴァンシーなどがいる。








1960年、スペイン出身のファビオラ・デ・モラ・イ・アラゴンが、ベルギー国王ボードゥアン1世と結婚した際には、バレンシアガがウェディングドレスを制作した。



後日、このノーブルなドレスはバレンシアガ財団に寄贈された♪




2011年6月7日、スペイン王妃ソフィアによって出身地のゲタリアにバレンシアガ博物館が開館、デザイン1,200点以上が展示された。その一部はジヴァンシーのような弟子や、ベルギー王妃ファビオラ・デ・モラ・イ・アラゴン、モナコ大公妃グレース・ケリーなどの顧客からの寄贈による










Cristóbal Balenciaga Eizaguirre (January 21, 1895 in Spain – March 23, 1972 in Spain) was a Spanish Basque fashion designer and the founder of the Balenciaga fashion house. He had a reputation as a couturier of uncompromising standards and was referred to as "the master of us all" by Christian Dior and as "the only couturier in the truest sense of the word" by Coco Chanel, who continued "The others are simply fashion designers". He continues to be revered as the supreme deity of the European salons. On the day of his death, in 1972, Women's Wear Daily ran the headline "The king is dead" (no one in the fashion world had any doubt as to whom it referred).

Since 2011 the purpose built Museo Balenciaga exhibits examples of his work in his birth town Getaria. Many of the 1200 pieces in the collection were supplied by his pupil Hubert de Givenchy and clients such as Grace Kelly.

2016年1月20日水曜日

20 ケネディ大統領、就任♪

1961年1月20日、第35代アメリカ合衆国大統領に、ジョン・F・ケネディが就任した♪





ジョン・フィッツジェラルド・ケネディは、1917年5月29日にマサチューセッツ州で、実業家の父ジョセフ・P・ケネディ・シニア、母ローズの次男として生まれた。名前は母方の祖父ジョン・F・フィッツジェラルドにちなんで付けられた。



1931年のケネディ家、左の白いシャツがジョン♪


ケネディは、生まれつき背骨に障害があり虚弱だった。 13歳の時消化器の障害と診断されステロイドの投与を受けた。成人してから副腎機能不全(アジソン病)で苦しむが、幼少期のステロイド大量投与が原因では?との説もある。



有名な出来事として、第二次世界大戦時、乗っていた魚雷艇が日本の駆逐艦天霧に衝突した。小型の魚雷艇は壊滅、2名が死亡、数名が重傷を負った。ケネディは負傷した仲間を命綱で結びつけて6キロ泳ぎきり小さな島にたどり着いた。そこでココナッツにメッセージを刻んで原住民に託し、オーストラリア軍に届けてもらった。救助隊が到着したのは6日後だった。ケネディはこのココナッツをホワイトハウスの執務室に飾っていたんだ♪



後日、なぜ英雄になることができたのかと、問われた際に、「簡単なことだ。日本軍が私のボートを真っ二つにしたからさ」と語ったんだって(笑





日本では、就任演説で語られた「国が諸君のために何が出来るかを問うのではなく、諸君が国のために何が出来るかを問うてほしい。」がよく引用されている♪











John Fitzgerald "Jack" Kennedy (May 29, 1917 – November 22, 1963), commonly referred to by his initials JFK, was an American politician who served as the 35th President of the United States from 20 January 1961 until his assassination in November 1963. The Cuban Missile Crisis, The Bay of Pigs Invasion, the Nuclear Test Ban Treaty, the establishment of the Peace Corps, developments in the Space Race, the building of the Berlin Wall, the Civil Rights Movement, the "New Frontier" domestic program, abolition of the federal death penalty in the District of Columbia, and increased U.S. involvement in the Vietnam War all took place during his presidency.

2016年1月19日火曜日

19 セザンヌ、リンゴの巨匠♪

 1839年1月19日は、フランスの画家セザンヌの生まれた日♪




「リンゴとオレンジのある静物」1895-1900年




ポール・セザンヌは当初、モネやルノワールとともに印象派として活動したが、1880年代頃から独自の絵画様式を探求しはじめた♪




特に静物画を好んだ。人物だとモデルが動くから(笑 居眠りしようものなら「リンゴが眠るか!」と怒鳴ったという。



常々「りんごひとつでパリを驚かせたい」と言っており、生涯で制作した200点の静物画のうち、60点以上の作品にりんごを描いたんだ♪



妻になったオルタンスは、石のように動かないでいることができたので、セザンヌが好んで、妻の肖像画だけで25枚も描いた♪




セザンヌ夫人

画商ヴォラールの肖像


後にセザンヌの個展を開催する画商ヴォラールの肖像を描いた際には、115回以上同じポーズを取らせた♪



作品がようやく評価されるのは晩年で、殊に亡くなった翌年の1907年、画商ヴォラールによって開催されたセザンヌ回顧展は、後の世代に多大な影響を与えたといわれている。後に活躍するピカソ、マティスらもこの展覧会を訪れて感銘をうけたという。











Paul Cézanne (19 January 1839 – 22 October 1906) was a French artist and Post-Impressionist painter whose work laid the foundations of the transition from the 19th-century conception of artistic endeavour to a new and radically different world of art in the 20th century. Cézanne's often repetitive, exploratory brushstrokes are highly characteristic and clearly recognizable. He used planes of colour and small brushstrokes that build up to form complex fields. The paintings convey Cézanne's intense study of his subjects.

Cézanne is said to have formed the bridge between late 19th-century Impressionism and the early 20th century's new line of artistic enquiry, Cubism. Both Matisse and Picasso are said to have remarked that Cézanne "is the father of us all."