2016年2月29日月曜日

29 美食の作曲家ロッシーニ♪

1792年2月29日 は、「ウィリアム・テル」の作曲家ロッシーニの生まれた日♪




ジョアキーノ・アントーニオ・ロッシーニは、生涯に39のオペラを作曲、悲劇を好むイタリアオペラとしては異色で、ハッピーエンドが多い。特に浮き立つようなクレッシェンドを好み、ロッシーニ・クレッシェンドと呼ばれている♪ 



1816年、24歳の作品「セビリアの理髪師」でヨーロッパ中に名声をとどろかせた。1822年、ウィーンで訪問を受けたベートーヴェンは「あなたはオペラ以外のものを書いてはいけません」と述べた♪ 1823年の「ロッシーニ伝」で、スタンダールは「ナポレオンは死んだが、別の男が現れた」と記した♪ ベルリオーズは「ウィリアム・テルの第1幕と第3幕はロッシーニが作った、第2幕は神が作った」と絶賛した♪






一方、彼は料理が大好きで、余生は創作料理と高級レストラン経営に熱中した。「トゥールヌド・ロッシーニ(フォワグラとトリュフを添えたヒレステーキ)↑」など、彼の考案したフランス料理は現代まで受け継がれている♪





Gioachino Antonio Rossini (29 February 1792 – 13 November 1868) was an Italian composer who wrote 39 operas as well as sacred music, chamber music, songs, and some instrumental and piano pieces.

His best-known operas include the Italian comedies Il barbiere di Siviglia (The Barber of Seville) and La Cenerentola (Cinderella), and the French-language epics Moïse et Pharaon and Guillaume Tell (William Tell). A tendency for inspired, song-like melodies is evident throughout his scores, which led to the nickname "The Italian Mozart".


2016年2月28日日曜日

28 アリスを描いたテニエル♪

1820年2月28日は、「不思議の国のアリス」や「鏡の国のアリス」の挿絵を手がけたジョン・テニエルの生まれた日♪





自画像


ョン・テニエルはロンドンに生まれ、王立美術院学校に入学するが間もなく学校を離れ、絵画はほぼ独学で身につけた。16歳で最初の油彩画をイギリス王立美術家協会の展覧会に出品する。20歳のとき、フェンシングの教官だった父と試合をしていて右目を失明する。



作品の芸術性やユーモアのある観察眼、動物の生態への豊富な知識を買われて、イソップ童話の挿絵を依頼される。最初に描いたのは「ジャックと豆の木」で、巨人はニコラス・ワイズマン枢機卿そっくりに描かれていたという。このイソップ童話は1848年に出版されている。



1850年のクリスマスから雑誌「パンチ」に参加する。2300の風刺漫画や250のポケットブックのデザイン、小説の挿絵などを残した。1865年に
「不思議の国のアリス」、1871年に「鏡の国のアリス」を描き、センセーショナルに世界的な評価を得る。1893年、その業績によりナイト爵に叙される♪









Sir John Tenniel (28 February 1820 – 25 February 1914) was an English illustrator, graphic humourist, and political cartoonist whose work was prominent during the second half of the 19th century. Tenniel is considered important to the study of that period’s social, literary, and art histories. Tenniel was knighted by Victoria for his artistic achievements in 1893.

Tenniel is most noted for two major accomplishments: he was the principal political cartoonist for Britain’s Punch magazine for more than 50 years, and he was the artist who illustrated Lewis Carroll’s Alice’s Adventures in Wonderland (1865) and Through the Looking-Glass, and What Alice Found There (1871).

2016年2月27日土曜日

27 小石川植物園が開園♪

1875年2月27日、小石川植物園が開園した♪





元々は、江戸幕府により薬になる植物を育てる目的で開園された御薬園だった。人口が増加しつつあった江戸で暮らす人々のために薬草を育てる目的で設置された。


1722年、吉宗将軍への直訴制度として設置された目安箱への町医師小川笙船の投書で、江戸の貧病人のための「施薬院」が請願され、吉宗は江戸町奉行の大岡忠相に命じて御薬園に併設して診療所を設けさせた。これが小石川養生所である。

その後明治期に、東京大学が1877年に開設されると、同大学理科大学(現・理学部)の附属施設となり、植物学の研究施設として、また一般にも公開されるようになった。約160,000㎡の敷地には約4,000種の植物が栽培され、四季を通してさまざまな花木を楽しむことができる。


精子発見のイチョウ


1896年に平瀬作五郎によって精子が発見されたことで有名なイチョウ。イチョウには雄株・雌株があり、精子が発見された株は雌株だった。



メンデルのブドウ

遺伝学の基礎を築いたメンデル(1822-1884)が実験に用いた由緒あるブドウの分株も生育されている。






The Koishikawa Botanical Gardens (40 acres, 16 hectares) are botanical gardens with arboretum operated by the University of Tokyo Graduate School of Science. They are located at 3-7-1 Hakusan, Bunkyō, Tokyo, Japan, and open daily except Mondays; an admission fee is charged.


The gardens date to 1684, when the 5th Tokugawa shogun, Tsunayoshi, established the Koishikawa Medicinal Herb Garden. In 1877, after the Meiji Restoration, they became a part of the university and the birthplace of Japanese botanical research. Today research activities are focused on the evolution, phylogenetic systematics, and physiology of higher plants.


The gardens' collections contain some 4,000 plant species, including 1,400 hardy woody species, 1,500 hardy herbaceous species, and 1,100 tropical and subtropical species. Notable outdoor collections include camellias, cherries, maples, Japanese primroses, bonsai trees, and alpine plants. A particular strength are the wild-collected species from Japan, Korea, Taiwan, and China.


The gardens also contain a herbarium with 1.4 million specimens, and a library of 20,000 books and journals.


The Koishikawa Yojosho, an early Japanese hospital, was established within the herb gardens by the eighth shogun Tokugawa Yoshimune in 1722.

2016年2月26日金曜日

26 世界一短い手紙、ユゴー♪

1802年2月26日は、「レ・ミゼラブル」の文豪ユゴーの生まれた日♪





ヴィクトル=マリー・ユゴーは、ナポレオン軍の軍人ジョゼフ・レオポール・シジスベール・ユゴーとソフィー=フランソワーズ・トレビュシェの三男として、父の任地、東部のブザンソンで生まれた。



生後6週間目に一家はマルセイユへ転居。以降、コルシカ島、エルバ島、パリ、ナポリ、マドリード、と母親とともに転々とする。ナポレオン派の父と、王党派の母の確執からだった。ひ弱な体質と長きにわたる父親不在で、強いマザーコンプレックスだったという。



17歳でアカデミーの詩のコンクールで一位を取り、詩集も発行、1822年「オードと雑詠集」が評価され、国王から年金をもらえることになり、1825年にはわずか23歳でレジオンドヌール勲章をも受ける♪



しかし1843〜1852年の約10年間、1冊も出版していない。フランス文学史上屈指の名作「レ・ミゼラブル(あゝ無情)」にとりかかっていたからである。1862年に政治亡命先のベルギーより出版され、大反響を巻き起こした。



「レ・ミゼラブル」が出版された際、旅行中だったユゴーは売れ行きが心配で、出版社に一文字「?」とだけ書いた手紙を送った。すると出版社から「!」と書かれた返信が届いたという(笑 これが世界でもっとも短い手紙のやりとりといわれている♪









Victor Marie Hugo ( 26 February 1802 – 22 May 1885) was a French poet, novelist, and dramatist of the Romantic movement. He is considered one of the greatest and best-known French writers. In France, Hugo's literary fame comes first from his poetry and then from his novels and his dramatic achievements. Among many volumes of poetry, Les Contemplations and La Légende des siècles stand particularly high in critical esteem. Outside France, his best-known works are the novels Les Misérables, 1862, and Notre-Dame de Paris, 1831 (known in English as The Hunchback of Notre-Dame). He also produced more than 4,000 drawings, which have since been admired for their beauty, and earned widespread respect as a campaigner for social causes such as the abolition of capital punishment.


An apocryphal tale about the shortest correspondence in history is said to have been between Hugo and his publisher Hurst and Blackett in 1862. Hugo was on vacation when Les Misérables was published. He queried the reaction to the work by sending a single-character telegram to his publisher, asking ?. The publisher replied with a single ! to indicate its success.

2016年2月25日木曜日

25 印象派の巨匠ルノアール♪

1841年2月25日は、フランスの印象派の画家ルノワールの生まれた日♪




舟遊びをする人々の昼食 1880 – 81年 犬を抱いているのが後のルノワール夫人

ピエール=オーギュスト・ルノワールは、フランス中南部のリモージュに生まれる。父は仕立屋、母はお針子で、3歳の時一家でパリに移住する。幼いころから画才を示していたが、美声でもあったため9歳で作曲家シャルル・グノーの聖歌隊に入った。ルノワールを評価したグノーはオペラ座に入るよう勧めたが、ルノワール自身が磁器工場を希望した。



1854年、13歳で磁器の絵付職人見習いとなるも、機械化の影響から仕事を失う。ここからルノワールは画家を目指す。1862年にはエコール・デ・ボザール(美術学校)に入学。並行してはグレールの画塾にも入り、モネ、シスレー、バジールら、後の印象派の画家たちと知り合う♪





ムーラン・ド・ラ・ギャレット1876年 


今でこそ絶賛されているが、当初は木漏れ日や影を青や紫の色点で表現した技法が理解されず、「腐った肉のようだ」と酷評されていた。一時出品をやめるなどしたが、1878年にはサロンに出品を再開。


1879年の「シャルパンティエ夫人と子どもたち」は絶賛を浴びた。モデルのシャルパンティエ夫人は富裕な出版業者夫人で、自邸で催すサロンは評判が高く、ルノワールもここで多くの文化人や芸能人の知己を得た。




シャルパンティエ夫人と子どもたち 1878年


若きルノワールに師のグレールが「君は自分の楽しみのために絵を描いているようだね」と言うとルノワールは「楽しくなかったら絵なんか描きませんよ」と答えたという♪














 





Pierre-Auguste Renoir, commonly known as Auguste Renoir ( 25 February 1841 – 3 December 1919), was a French artist who was a leading painter in the development of the Impressionist style. As a celebrator of beauty, and especially feminine sensuality, it has been said that "Renoir is the final representative of a tradition which runs directly from Rubens to Watteau."


He was the father of actor Pierre Renoir (1885–1952), filmmaker Jean Renoir (1894–1979) and ceramic artist Claude Renoir (1901–69). He was the grandfather of the filmmaker Claude Renoir (1913–1993), son of Pierre.

2016年2月24日水曜日

24 世界一の旅行家バットゥータ♪

1304年2月24日は、旅行記「諸都市の新奇さと旅の驚異に関する観察者たちへの贈り物」のイブン・バットゥータの生まれた日♪



イブン・バットゥータ



バットゥータが13世紀に旅した地は、アフリカ、ヨーロッパ、中東、アジア、中国が含まれており、その広範囲さは現代のインフラを用いても困難なため、史上最も偉大な旅行家の一人と高く評価されている♪



シルクロードキャラバンのシンボル、霊廟とフタコブラクダ


1325年、21歳のときにメッカ巡礼に出発し、さらにイラン、シリア、アナトリア半島、黒海、キプチャク・ハン国、中央アジア、インド、スマトラ、ジャワを経て中国に達し、泉州・大都を訪問した。




帰国後、マリーン朝スルターンの命令を受けて、イブン・ジュザイイが口述筆記を行ない、1355年に旅行記「諸都市の新奇さと旅の驚異に関する観察者たちへの贈り物」が完成する。この旅行記は19世紀になって注目され、各国語に翻訳されて世界的に読まれるようになった♪



メッカにおける巡礼者のグループ/13世紀の挿絵



ちなみに、バットゥータは本書で万里の長城について触れている。1345年、中国福建省泉州を訪れ、この街の職人と彼らの作る絹織物、磁器、プラムやスイカといった果物、そして紙の通貨の利便性に賛辞を送っている。さらには中国料理と食材、たとえばカエルやブタ、イヌが食材として市場で売られていること、ニワトリが大きいことなど記している♪









Ibn Baṭūṭah (February 24 or25, 1304 – 1368 or 1369), was a Medieval Muslim traveler and scholar, who is widely recognised as one of the greatest travelers of all time.[1][2] He is known for his extensive travels, accounts of which were published in the Rihla (lit. "Journey"). Over a period of thirty years, Ibn Battuta visited most of the known Islamic world as well as many non-Muslim lands. His journeys included trips to North Africa, the Horn of Africa, West Africa and Eastern Europe, and to the Middle East, South Asia, Central Asia, Southeast Asia and China.



2016年2月23日火曜日

23 グーテンベルグ聖書、印刷♪

1455年2月23日に、グーテンベルク聖書が印刷開始された♪


ニューヨーク公立図書館のグーテンベルク聖書。
1847年にジェームズ・レノックスより購入。


グーテンベルク聖書は、15世紀にドイツのヨハネス・グーテンベルクが活版印刷した世界初の印刷聖書。ほとんどのページが42行の行組みなので「四十二行聖書」と呼ばれる。



貴族の子で腕利きの金細工職人であったグーテンベルクは活版印刷の技術の実用化に成功、マインツの実業家ヨハン・フストから資金を得て聖書の印刷に取りかかった。



当時もっともよく読まれていたラテン語聖書「ヴルガータ」の、13世紀にパリ大学で校訂された「パリ本」をメインテキストとした。巻頭にヒエロニムスの手紙があるが、これは中世の聖書の伝統だった。本文は黒色で単色印刷され、あとから飾り文字と飾り罫が手描きされた。



グーテンベルク聖書の1ページ目(テキサス大学所蔵)
このページは40行である。


グーテンベルク聖書は長らく忘れ去られていたが、1763年にマザラン枢機卿のコレクションから「四十二行聖書」が発見された。このことから「マザラン聖書」とも呼ばれている。



アメリカ合衆国議会図書館収蔵のグーテンベルク聖書


2006年時点でグーテンベルク聖書は、世界で48部が確認されている。もっとも多く存在する国はドイツとアメリカで、それぞれ12部である。ニューヨークに4部、ロンドンには3部と断片集、パリ、モスクワ、バチカン、マインツ(グーテンベルク博物館)、日本に2部づつ存在する♪



日本の2部は、アジアで唯一となる完本が慶応義塾大学所蔵で一部、もう一部は東北学院大学シュネイダー記念中央図書館が不完全本を所蔵している♪









The Gutenberg Bible (also known as the 42-line Bible, the Mazarin Bible or the B42) was the first major book printed using mass-produced movable type. It marked the start of the "Gutenberg Revolution" and the age of the printed book in the West. Widely praised for its high aesthetic and artistic qualities, the book has an iconic status. Written in Latin, the Catholic Gutenberg Bible is an edition of the Vulgate, printed by Johannes Gutenberg, in Mainz, in present-day Germany, from 23  the 1450s. Print has started from 22 February 1455. Forty-eight copies, or substantial portions of copies, survive, and they are considered to be among the most valuable books in the world, even though no complete copy has been sold since 1978.

2016年2月22日月曜日

22 「脱帽の天才」ショパン♪

1810年2月22日(3月1日説も)は、ショパンの生まれた日♪



1835年 マリア・ヴォジンスカ画

父親ニコラ・ショパンは、1787年に16歳でポーランドに移住してきたフランス人。ポーランドではポーランド風の名前、ミコワイと名乗った。フランス語が堪能であったため貴族の家庭教師になり、その遠い親戚ユスティナと結婚する。フレデリック・ショパンは2人目の子どもとして生まれた。


ショパンの生家


ショパンの家族は皆音楽の才能に恵まれていた。父ニコラはフルートとヴァイオリンを、母ユスティナはピアノに長けており、寮生たちに指導していた。幼いショパンは母が弾くピアノを聴いて感極まって涙を流したという♪




ショパンは幼少の頃からいろいろな面で才能を発揮し、ユーモアにあふれ、ものまねと漫画を描くのが得意で(笑 学校ではクラスの人気者だった♪



ショパンが本格的にピアノを習ったのは1816〜1822年、指導者はチェコ人ヴォイチェフ・ジヴヌィだった。あっという間に師匠を超えた7歳の「ショパン少年」は公開演奏を行うようになる。この時期に2つのポロネーズを作曲し、ジヴヌィに捧げられた。



1826年にワルシャワ音楽院に入る。通知表には「音楽の天才」と書かれた♪ 



1831年にはシューマンが、ショパンの「ラ・チ・ダレム変奏曲」を評して言った。「諸君、帽子を脱ぎたまえ!天才だ」



ミエロシェフスキ作1829年



ショパンの伝記作家エドゥアール・ガンシュは、ミエロシェフスキのこの肖像画から、「この若者が結核に罹っていることがわかる。」と記している。








Frédéric François Chopin (22 February 1810 – 17 October 1849), born Fryderyk Franciszek Chopin , was a Polish composer and a virtuoso pianist of the Romantic era, who wrote primarily for the solo piano. He gained and has maintained renown worldwide as one of the leading musicians of his era, whose "poetic genius was based on a professional technique that was without equal in his generation." Chopin was born in what was then the Duchy of Warsaw, and grew up in Warsaw, which after 1815 became part of Congress Poland. A child prodigy, he completed his musical education and composed his earlier works in Warsaw before leaving Poland at the age of 20, less than a month before the outbreak of the November 1830 Uprising.


At the age of 21 he settled in Paris. Thereafter, during the last 18 years of his life, he gave only some 30 public performances, preferring the more intimate atmosphere of the salon. He supported himself by selling his compositions and teaching piano, for which he was in high demand. Chopin formed a friendship with Franz Liszt and was admired by many of his musical contemporaries, including Robert Schumann. In 1835 he obtained French citizenship. After a failed engagement to Maria Wodzińska, from 1837 to 1847 he maintained an often troubled relationship with the French writer George Sand. A brief and unhappy visit to Majorca with Sand in 1838–39 was one of his most productive periods of composition. In his last years, he was financially supported by his admirer Jane Stirling, who also arranged for him to visit Scotland in 1848. Through most of his life, Chopin suffered from poor health. He died in Paris in 1849, probably of tuberculosis.

All of Chopin's compositions include the piano. Most are for solo piano, though he also wrote two piano concertos, a few chamber pieces, and some songs to Polish lyrics. His keyboard style is highly individual and often technically demanding; his own performances were noted for their nuance and sensitivity. Chopin invented the concept of instrumental ballade. His major piano works also include mazurkas, waltzes, nocturnes, polonaises, études, impromptus, scherzos, preludes and sonatas, some published only after his death. Influences on his compositional style include Polish folk music, the classical tradition of J. S. Bach, Mozart and Schubert, the music of all of whom he admired, as well as the Paris salons where he was a frequent guest. His innovations in style, musical form, and harmony, and his association of music with nationalism, were influential throughout and after the late Romantic period.

2016年2月21日日曜日

21  DNAは二重らせん♪

1953年2月21日は、イギリスの科学者フランシス・クリックが、DNAの二重螺旋構造を発見した日♪







フランシス・ハリー・コンプトン・クリックは、ノーザンプトン近郊の小さな村で生まれ育った。父ハリーは靴やブーツを製造する工場を営んでいた。クリックは小さいころから科学が好きで多くのことを読書で学んだ♪


ケンブリッジ大学キース校の大食堂を彩るDNAのステンドグラス。
同校の卒業生であるクリックに敬意を表して。



21歳の時、物理学専攻でケンブリッジ大学キーズ校へ進学する。しかしこの進路はクリックが望んでいた所ではなかった。ラテン語の成績があまり良くなかったためで、しぶしぶ始めた研究は「高温の水の粘度の測定」。彼はこの実験をのちに「想像しうる最も退屈な研究」と語っている(笑



1947年、世界大戦が終結するとクリックは生物学に転向した。これは物理学から生物学に転向したジョン・ランドールのような物理学者の影響だった(ランドールは、戦時中レーダーを開発してイギリスを勝利に導いた)。




クリックは、「物理学の訓練を受けた生物学者」として頭角を現す。生物学に転向して6年足らずの1953年2月21日に、科学雑誌Natureに、わずか2ページの論文を投稿する。DNAの二重螺旋構造を示したこの論文は「遺伝は具体的な物質的基盤をもった科学的現象である」と解明した。


この功績により、1962年にクリックはジェームズ・ワトソン、モーリス・ウィルキンスとともにノーベル生理学・医学賞を受賞した♪









Francis Harry "Rickety Cricket" Compton Crick OM FRS (8 June 1916 – 28 July 2004) was a British molecular biologist, biophysicist, and neuroscientist, most noted for being a co-discoverer of the structure of the DNA molecule in 21 February 1953 with James Watson. Together with Watson and Maurice Wilkins, he was jointly awarded the 1962 Nobel Prize in Physiology or Medicine "for their discoveries concerning the molecular structure of nucleic acids and its significance for information transfer in living material".


2016年2月20日土曜日

20 6歳でアカデミー賞♪

1935年 2月20日に、シャーリー・テンプルが6歳の史上最年少でアカデミー賞特別賞を受賞した♪







シャーリー・ジェーン・テンプルは、
サンタモニカの上品な住宅街で育つ。母親は妊娠中、音楽や美しい絵、きれいな風景に接して胎教につとめたという。生まれてきた赤ん坊はダンスと音楽に秀でた才能を現したため、この「シャーリー・テンプルの胎教」は、アメリカで大変流行った。


フォックス・フィルム社に見出され、一夜にしてアメリカを熱狂させた。作品の大当たりは大恐慌下のフォックス・フィルム社を倒産から救った。


シャーリー・テンプルは、本来のきまじめで勤勉な性格から、撮影が始まる前に必ず台本に載った登場人物全員の台詞を暗記した。そして一回の撮影で監督を満足させたことから、ジョン・フォード監督に「一回撮りのシャーリー」と絶賛されたという。


子役時代のシャーリー・テンプルとエレノア・ルーズヴェルト大統領夫人(1938年)


ルーズベルト大統領はラジオ演説で「大不況のさなか、わが国民が、映画で見るシャーリー・テンプルの笑顔に励まされ、苦労を忘れられることは実に素晴らしい」と述べた♪




映画『テンプルちゃんの小公女』(1939年)の一場面


5歳のころ、両親とホテルに滞在していると、紳士が近づいてきて、この街のクリスチャンを代表する者だと名乗り、シャーリーにメダルをあげましょうと声をかけた。シャーリーはおもちゃのメダルを集めていて、ほしいと答えると男性は彼女を抱き上げて大広間へと入って行った。


数千人の聴衆が集う会場のステージにあがり、メダルを授与した男性は、挨拶をしてほしいと頼んだ。両親もフォックス広報も真っ青である。こんな時どうふるまえばいいか、誰も教えていない。たった5歳の子供になにができるだろう。固唾を飲んで見守るほかなかった。


するとシャーリーは、笑顔でメダルのお礼をして、大会が成功しますようにと述べ、皆さんが大好きです、と投げキスで結んだという(笑 大きな拍手が鳴り止まなかった♪ ステージから降りたところを待ち構えていた広報は感に堪えないようすで「君に教えなきゃならないことはもう何もないよ」と言ったという♪








Shirley Temple Black (née Temple; April 23, 1928 – February 10, 2014) was an American film and television actress, singer, dancer, and public servant, most famous as Hollywood's number-one box-office star from 1935 through 1938. As an adult, she entered politics and became a diplomat, serving as United States Ambassador to Ghana and later to Czechoslovakia, and as Chief of Protocol of the United States.


Temple began her film career in 1932 at the age of three. In 1934, she found international fame in Bright Eyes, a feature film designed specifically for her talents. She received a special Juvenile Academy Award in 20 February 1935 for her outstanding contribution as a juvenile performer to motion pictures during 1934, and film hits such as Curly Top and Heidi followed year after year during the mid-to-late 1930s. Licensed merchandise that capitalized on her wholesome image included dolls, dishes, and clothing. Her box-office popularity waned as she reached adolescence. She appeared in a few films of varying quality in her mid-to-late teens, and retired completely from films in 1950 at the age of 22. She was the top box-office draw in Hollywood for four years in a row (1935–38) in a Motion Picture Herald poll.

2016年2月19日金曜日

19 地動説とコペルニクス♪

1473年2月19日は、天文学者、司祭で、地動説を唱えたニコラウス・コペルニクスのうまれた日♪




ヤン・マテイコによるコペルニクスの肖像「コペルニクス: 神との対話」



コペルニクスは、1473年にトルンで生まれた。生家は旧市街広場の一角にある。10歳の時、裕福な商売人だった父親が亡くなり叔父であるルーカス司祭が、コペルニクスを育てた。



コペルニクスの生家



1495年に学業を終えると、叔父の希望でヴァルミアの律修司祭の職につき、1496年からボローニャ大学に留学、さらにパドヴァ大学で医学を学んだ。帰国したコペルニクスは、聖職者また医師として多忙な日々を送りつつ天体観測を続けた。



1510年、コペルニクスは「コメンタリオルス」を発行し、「地動説」をはじめて論文にした。これは数人の友人の数学者に送られた同人誌だった。コペルニクスは当初、「地動説」を公に発表するつもりは全く無かったが、「地動説」は友人たちを通じてかなり知られるようになっていった。



1542年に、ようやくコペルニクスが重い腰をあげて、著書「天体の回転について」の草稿を完成させた。しかし、その年の11月に脳卒中で倒れ、半身不随となってしまった。校正刷りが彼のもとに届いたのは、死の当日だったという。1543年5月24日、コペルニクスは70歳でこの世を去った。








1616年、ガリレオの裁判が始まる直前、コペルニクス著書「天体の回転について」はローマ教皇庁で閲覧が停止された。 ただし禁書扱いにはならず、数年後に再び閲覧が許可されるようになったという。

















Nicolaus Copernicus (19 February 1473 – 24 May 1543) was a Renaissance mathematician and astronomer who formulated a model of the universe that placed the Sun rather than the Earth at the center of the universe. The publication of this model in his book De revolutionibus orbium coelestium (On the Revolutions of the Celestial Spheres) just before his death in 1543 is considered a major event in the history of science, triggering the Copernican Revolution and making an important contribution to the Scientific Revolution.

Copernicus was born and died in Royal Prussia, a region that had been a part of the Kingdom of Poland since 1466. He was a polyglot and polymath who obtained a doctorate in canon law and also practiced as a physician, classics scholar, translator, governor, diplomat, and economist. Like the rest of his family, he was a third order Dominican. In 1517 he derived a quantity theory of money – a key concept in economics – and in 1519 he formulated a version of what later became known as Gresham's law.

2016年2月18日木曜日

18 エンツォ・フェラーリ誕生♪

1898年2月18日は、イタリアの自動車会社フェラーリの創設者、F1の名門スクーデリア・フェラーリのオーナー、エンツォ・アンゼルモ・フェラーリの生まれた日♪








愛称はコメンダトーレ(イタリア共和国功労勲章の勲三等位の名称)。モータースポーツ界の偉人としてオールドマンとも称される♪




1898年モデナの板金工の次男に生まれ、9歳のときに観た地元レースでモータースポーツの魅力を知る。自身は「私はなりたかったものが3つある。1つはオペラ歌手、もう1つはスポーツ記者、そしてレーサーだ」と回想しており、青年時代にはスポーツ紙にサッカー戦評を送ったこともあった♪



アルファロメオチームのメンバー(右から2人目がエンツォ)


1916年に病気で父を、戦争で兄を亡くし、自身も徴兵され第一次世界大戦に参戦するが、肋膜炎で死線をさまよう。除隊後、1920年にアルファロメオのドライバーとなった。やがて
1932年に息子アルフレードが生まれたのを機に、レーシングドライバーとしてのキャリアに見切りをつけた。




1939年にアルファロメオを去り、1947年に自社製レーシング・マシンを開発、自動車製造会社フェラーリを設立、レース資金を稼ぐ目的で高級スポーツカーの販売も始めた。



フェラーリは1950年から始まったF1に参戦し、早くも1951年には初優勝した。その後も古巣アルファロメオを破り、イタリアを代表するナショナル・チームの地位を確立した。以後、F1やル・マン24時間レースなど、第一線で数々の輝かしい成績を残した♪



エンツォ・フェラーリ生家博物館




「カヴァリーノ・ランパンテ(跳ね馬)」のエンブレムと真紅のナショナルカラーをまとった市販車も、その高い性能と美しいデザインで1950年代以降ヨーロッパ各国やアメリカ、日本や中東にて、王族や映画スター、大富豪などの「セレブリティー愛用のブランド」として根強い人気を誇る♪














Enzo Anselmo Ferrari, Cavaliere di Gran Croce OMRI (18 February 1898 – 14 August 1988) was an Italian motor racing driver and entrepreneur, the founder of the Scuderia Ferrari Grand Prix motor racing team, and subsequently of the Ferrari automobile marque. He was widely known as "il Commendatore" or "il Drake". In his final years he was often referred to as "l'Ingegnere" or "il Grande Vecchio (the Great Old Man)".


2016年2月17日水曜日

17 メンデレーエフと周期律♪

1869年 2月17日、ロシアの化学者メンデレーエフが周期律を発見♪






ドミトリ・イヴァーノヴィチ・メンデレーエフは、西シベリアの中学校長の14人の子供の末っ子として生まれた。14歳の時父を亡くし、貧しい家族とともにサンクトペテルブルクに移り住み進学、1865年にはサンクトペテルブルグ大学の教授となった。



1869年の2月17日、元素の化学的特性について考えていたメンデレーエフは、そのまま眠りに落ちてしまった。居眠りの最中、彼は夢の中ですべての元素が原子量の順に並んだ表を見た。目を覚ました彼は即座にその表を紙に書いてみた。彼はこの表から、元素を原子量の順に並べると化学的特性が周期的に繰り返されるという発想を思い付いたという♪



1869年にロシア化学学会で The Dependence Between the Properties of the Atomic Weights of the Elements と題して発表を行った。



メンデレーエフの最初の英語版の周期表。(1891年のロシア語の第5版をベースにしている。)


この周期表は、当初疑いの目で見るものが多かったが、メンデレーエフが周期表に空欄を作って予言したとおりの場所に、1875年にガリウム、1879年にスカンジウム、1886年にゲルマニウムと、新元素が発見されたことから正確さが認められ、高く評価されるようになった♪


メンデレーエフスカヤ駅

1955年、101番元素は彼の名にちなみ「メンデレビウム」と名づけられた♪ 他にも功績を讃えて、月のクレーター、タタールスタン共和国の都市メンデレーエフスク、国後島のメンデレーエフ空港、モスクワ地下鉄のメンデレーエフスカヤ駅に、彼の名が冠された。ちなみに、メンデレーエフスカヤ駅の装飾↑ は分子模型をかたどったユニークなデザインとなっている♪















Dmitri Ivanovich Mendeleev(8 February 1834 – 2 February 1907) was a Russian chemist and inventor. He formulated the Periodic Law, created his own version of the periodic table of elements, and used it to correct the properties of some already discovered elements and also to predict the properties of eight elements yet to be discovered.

By adding additional elements following this pattern, Dmitri developed his extended version of the periodic table.On 6 March 1869, Mendeleev made a formal presentation to the Russian Chemical Society, entitled The Dependence between the Properties of the Atomic Weights of the Elements, which described elements according to both atomic weight and valence.

After becoming a teacher, Mendeleev wrote the definitive textbook of his time: Principles of Chemistry (two volumes, 1868–1870). As he attempted to classify the elements according to their chemical properties, he noticed patterns that led him to postulate his periodic table; he claimed to have envisioned the complete arrangement of the elements in a dream in 17 February 1969.

"I saw in a dream a table where all elements fell into place as required. Awakening, I immediately wrote it down on a piece of paper, only in one place did a correction later seem necessary."