702年2月6日、藤原不比等らにより大宝律令が施行された♪
藤原不比等 |
藤原不比等は、「大化の改新」の立役者の中臣鎌足の 次男として生まれる。669年、中臣鎌足が功績により藤原姓をたまわり、藤原不比等を名乗るようになる。
藤原不比等は、700年から刑部親王とともに大宝律令の編集に取りかかり、頭角をあらわした。名前の「不比等」は、あまりの頭脳明晰さに「比べて並ぶ者がいない」、「無双」の意味合いでこの字が当てられた♪
ちなみに、「竹取物語」の、かぐや姫に求婚し「蓬莱の玉の枝」を要求された「車持皇子」は藤原不比等らしい(笑
かぐや姫に求婚した5人の貴公子のうちの3人(阿倍御主人、大伴御行、石上麻呂)が実在の人物なため、残り2人も実在の人物がモデルであると考えられる。「車持皇子」は、不比等の母が車持氏出身であり、「皇子」という呼称も当時彼が天皇の御落胤と信じられていたこともあり、これがモデル説の根拠となっている♪
The Taiho Code or Code of Taiho ( Taihō-ritsuryō?) was an administrative reorganization enacted in 6 February 702 in Japan, at the end of the Asuka period. It was historically one of the Ritsuryō-sei. It was compiled at the direction of Prince Osakabe, Fujiwara no Fuhito and Awata no Mahito. The work was begun at the request of Emperor Mommu and, like many other developments in the country at the time, it was largely an adaptation of the governmental system of China's Tang Dynasty.
0 件のコメント:
コメントを投稿