2016年4月28日木曜日

28 一人を救う者は世界を救う

1908年4月28日は、第二次世界大戦中、ドイツの強制収容所のユダヤ人1,200人の命を救ったシンドラーの生まれた日♪






オスカー・
シンドラーは、ギムナジウム在学中に成績証明書を改ざんして退学処分となっている(笑 後に復学を許されるが、クラスメイトから「詐欺師シンドラー」と渾名されたという(笑



シンドラーのナチス党政権への抵抗は、思想的な理由からでは無かった。人道的な工場主は、ユダヤ人たちに対する無慈悲な扱いに違和感を抱いた。彼は出来るだけ多くのユダヤ人を救済したいという願望の前に全財産を投げ出した♪



シンドラーのユダヤ人救済においての強みは、彼の工場が軍需工場だったこと。 生産ラインに労働力が不可欠だと主張することで、絶滅収容所へ移送される際に救命を働きかけることができた♪



その際には子供や大学生を熟練の金属工として登録した。シンドラーのこの有名な「リスト」は、秘書ミミ・ラインハルトに口述筆記させ、彼女もまた2,3人それに書き足した♪



1944年末、20,000人以上のユダヤ人が絶滅収容所に移送された。シンドラーは、ドイツ軍の司令官から、彼の「軍需産業」の労働者を連れていく許可を得た。その労働力は800人になった。



人々の移送列車はアウシュヴィッツを通った。その時、すべての囚人はそこの検疫所に行くようにという親衛隊の指令書が届いた。シンドラーは駆けつけ、救命のために1人当たりゲシュタポに7マルク支払った。これはアウシュヴィッツ運営上、最も多くの集団が出て行くことを許された例外的なケースだった♪



シンドラー夫妻はアウシュヴィッツからさらに120人のユダヤ人を救出した。1945年1月、この人々は家畜用貨物車で荷送された。親衛隊は、凍てつく寒さの中食事も水も与えず、7日間かけて工場の門まで運んだ。妻のエミーリエは貨物車だけを工場に入れ、親衛隊を入れなかった。シンドラーは、労働者が工場にとって急ぎ必要なのだと説いた。貨物車のドアを開けると13人の凍死者が発見され、生き延びた107人はようやく一命を取り留めた。



その後、シンドラーはドイツに帰国したが、1ペニヒすら持っていなかった。1945年、シンドラーに命を救われたユダヤ人たちが唯一持っていた金歯でつくった指輪を贈った。「一人の人間を救う者は世界を救う」 - タルムードの言葉が指輪に刻まれていた♪



レーゲンスブルクのシンドラーが居住した建物の壁にある記念プレート



時とともにシンドラーの事績は忘れ去られたが作家キニーリーが著した「シンドラーの箱船」(原題 Schindler's Ark
 )がベストセラーとなり、スピルバーグ監督が映画化、世界的な感動を呼んだ♪








Oskar Schindler (28 April 1908 – 9 October 1974) was a German industrialist, spy, and member of the Nazi Party who is credited with saving the lives of 1,200 Jews during the Holocaust by employing them in his enamelware and ammunitions factories, which were located in occupied Poland and the Protectorate of Bohemia and Moravia. He is the subject of the 1982 novel Schindler's Ark, and the subsequent 1993 film Schindler's List, which reflected his life as an opportunist initially motivated by profit who came to show extraordinary initiative, tenacity and dedication to save the lives of his Jewish employees.

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