1862年3月11日、将軍・徳川家茂、和宮親子内親王と婚儀♪
唯一の現存写真 |
和宮 親子内親王は、仁孝天皇の第八皇女。孝明天皇の異母妹。明治天皇は甥にあたる。「和宮」は幼名。家茂死後には落飾し、静寛院宮(せいかんのみや)と名乗った。
大奥で中臈だった大岡ませは、廊下で和宮に会った時、平伏した自分の前を通る和宮の袴から出た足が、足袋を履かずに素足だったことの驚きを、後日(明治になって)語った。
江戸大奥では足袋を履くのが決まりだったが、御所では通常足袋を履かない、「御所風の生活」を文字通り和宮が実践していたためだった。
家茂の母天璋院は、和宮と初対面の際、上座に座って会釈も礼もせず、和宮の座には敷物も用意されていなかった。こういった対立も年月とともに氷解し、維新後は天璋院を始めとして徳川家の人々と親しく交流した。
ちなみに、天璋院とともに勝海舟の屋敷を訪れて、昼食をとった際には、お櫃のご飯をよそって差し上げましょうと押し問答となってきりがなく、勝がもう一つしゃもじを用意して互いの茶碗にご飯をよそったという有名な逸話がある♪
ところで、遺骨に手首がなかったため、和宮が片腕だったのではという説がある。そういえば肖像画にも片手が描かれていない、などと諸説あったが、両手がなければご飯をしゃもじでお茶碗によそえないので、この説は誤りと思われる(笑
Chikako, Princess Kazu ( 1 August 1846 – 2 September 1877) (Kazunomiya) was the wife of 14th shogun Tokugawa Iemochi since 11 March 1862 . She was renamed Lady Seikan'in no miya after she took the tonsure as a widow.
She was the eighth and youngest daughter of Emperor Ninkō and his concubine, Hashimoto Tsuneko - renamed Kangyouin (観行院) after she took the tonsure. She was the younger sister of Emperor Kōmei.A few months after her birth, her father, Emperor Ninkō, died unexpectedly. Born on 1 August 1846, her official birth date was changed to 3 July because the actual birth date was a bad omen date, and a double bad omen with the death of her father a few months later.
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