1813年3月19日に、探検家・宣教師リヴィングストン誕生♪
デイヴィッド・リヴィングストンは、1813年にスコットランドで生まれた。生家は貧しく、10歳の頃から紡績工場で働いた。日中の工場での仕事中に本を読む工夫をしつつ、夜間学校で熱心に勉強をした。大学在学時は長期休暇の度に工場で働き学資を得て、医学と神学を学んだ。
1838年にロンドン宣教師協会へ入会、アフリカ大陸の宣教師ロバート・モファットと知り合い、南アフリカへ派遣される。1844年、モファットの長女メアリーと結婚し、布教のため内陸部へ移動した。1851年に、子供の一人が熱病で倒れたことから、1852年には家族をイングランドへ送り返した。
1857年の著書「南アフリカにおける宣教師の旅と探検」は、ベストセラーとなる。1865年に、2冊目の著書「ザンベジ川と支流」を出版。描かれた奴隷貿易、および現地人への虐待や虐殺の実態は、当時の知識人たちを驚愕させた。
3回目のアフリカ探検は、王立地理協会からのナイル川の水源を探求する依頼だった。1865年にイギリスを旅立ったが、その後消息を絶ち、死亡説まで流れた。1869年、「ニューヨーク・ヘラルド」の経営者ゴードン・ベネットは、特派員ヘンリー・スタンリーにリヴィングストン捜索を依頼した。
スタンリーはウジジ近辺でリヴィングストンと遭遇した。骸骨のようなやせ衰えた姿を見て「リヴィングストン博士でいらっしゃいますか?(Dr. Livingstone, I presume?)」は、のちにイギリスで思いがけず人と対面した時の慣用句となるほど、劇的なエピソードとして伝えられた。
リヴィングストンは探検中に天体観測による測量術を身に付け、ほぼ正確に地図を作ることができた。その地図はイギリスに伝えられ、そこから交易のルートが生まれた。
その著書で再三奴隷市場の廃絶を訴えていたため、奴隷商人に何度も探検を妨害され、暗殺されかかった。彼の運動は1871年に実を結び、ザンジバルの奴隷市場は閉鎖された♪
ザンビアのリヴィングストンにある記念碑 |
ザンビアには彼の名にちなんだ都市リヴィングストンがあり、今も彼の記念碑と彼の資料を集めた博物館が建っている。また、マラウイのカロンガ県の都市、リビングストニアもこの名に由来する♪
David Livingstone (19 March 1813 – 1 May 1873) was a British Congregationalist pioneer medical missionary with the London Missionary Society and an explorer in Africa. His meeting with H. M. Stanley on 10 November 1871 gave rise to the popular quotation "Dr. Livingstone, I presume?" Livingstone was one of the most popular national heroes of the late 19th century in Victorian Britain, and he had a mythical status which operated on a number of interconnected levels: Protestant missionary martyr, working-class "rags to riches" inspirational story, scientific investigator and explorer, imperial reformer, anti-slavery crusader, and advocate of commercial empire. His fame as an explorer helped drive forward the obsession with discovering the sources of the River Nile that formed the culmination of the classic period of European geographical discovery and colonial penetration of the African continent.
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