1585年3月23日に、天正遣欧少年使節、ローマ法王に謁見♪
天正遣欧少年使節は、1582年にイエズス会員アレッサンドロ・ヴァリニャーノが発案した、九州のキリシタン大名、大友宗麟・大村純忠・有馬晴信らの名代としてローマへ派遣された4名の少年による使節団♪
伊東マンショ(13歳=出発時・以下同じ)
千々石(ちぢわ)ミゲル(13歳)
中浦ジュリアン(14歳)
原マルチノ(13歳)
この少年たちがリスボン港に到着したのは1584年だった。
長い旅程を過て、1585年にローマにて法王グレゴリー三世に謁見、その後1590年に帰国した。使節団によってヨーロッパの人々に日本の存在が知られる様になり、また彼らの持ち帰ったグーテンベルク印刷機で日本初の日本語書物の活版印刷が行われ、キリシタン版と呼ばれたという♪
↑ 1586年にドイツのアウグスブルグで印刷された、天正遣欧使節団の肖像画。タイトルは「日本島からのニュース」(笑 右上・伊東、右下・千々石、左上・中浦、左下・原。中央・メスキータ神父。
The Japanese embassy with Pope Gregory XIII on March 23, 1585.
The Tenshō embassy (Japanese: 天正の使節, named after the Tenshō Era in which the embassy took place) was an embassy sent by the Japanese Christian Lord Ōtomo Sōrin to the Pope and the kings of Europe in 1582. The embassy was led by Mancio Itō (伊東 マンショ Itō Mansho, 1570–1612), a Japanese nobleman, who was the first official Japanese emissary to Europe.
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